内容紹介
cônjuge… ポルトガル語で、「配偶者」の意。
「死せる偶像」を蘇らせる、苦しみのたびに、何度でも。
一人の少女による自らの救済を描く、圧巻のデビュー作。
川上未映子×木崎みつ子『コンジュジ』刊行記念対談
【書評】おまえらの外とさらにその向こう
津村記久子
本当のところ、人は現実的には誰かと簡単に出会って救われたりはしないで、一人で困難を後ろにやってきていると思う。「乗り越えてきた」ではない。後ろにやってきた。とにかく苦しみを通り過ぎる。けれどもなんとかして通り過ぎただけだから、時間が経過してもそいつらは思い出したように追ってきて、わたしたちの背中にしがみつき、引きずり戻そうとする。そういう時に、抱き締めてくれる人と現実的に出会っていたり、抱き締められる何かがいるんならそれでいいと思う。多くの人が語りたがるのはたいていそういう物語だ。絵になるし、誰にでも理解しやすいから。
ならば「出会っていない人」はどうしたらいいのか。とにもかくにも逃れてきた苦痛をどう躱せばいいのか。抱き締めてくれる人がいないと人は苦しみを躱すことができないのか。躱す資格がないのか。ここで、はい、と思った人は、どこかへ消えて無神経に幸せに、周りの人の生き方には一切口出ししないでやってってほしい。
本書は、自分自身のことさえまともに考えられない弱い母親と弱い父親の元に生まれ、弱い父親からまとわりつかれながら性的な事柄も含む虐待を受け、誰にもそのことを打ち明けられないまま一方的に弱い父親が消えて、しかしその後を生きなければいけなかった女の子の物語だ。「そんな人生生きられない」と思われるだろうか。生きられたんだよ。バンドがあったから。
わたしは虐待を受けたわけではないけれども、弱い父親の子供ではあるので、彼らがどれだけ弱さで周囲を振り回して影響を与えるかについては覚えがある。弱さはときどき強さ以上に周りの者を傷付け、何十年という単位でその人生をおかしくするというのは、かなりの年齢になってから実感し、言語化できるようになったことだ。わたしの人生が父親のせいでおかしくなったと訴えるつもりはないけれども、少なくともおかしくなった家族の一員からは悪い影響を受けた。本書を読むとすぐにわかるように、親の弱さの抑制されない拡散は、子供に苦しみを与える(親の弱さが悪いというのではなく、子供にぶちまけるのがいけない)。こんなことを運が悪いで済ましてはいけないといつも怒鳴りつけたくなるのだが、済まされてしまうのが現状だし、この小説はその改善に対しては何の幻想もない。そして何の幻想もないまま、最前線と言える場所で語られているからこそすごく勇気がある。
出会わない、改善が期待されない状況において、著者は主人公のせれなに唯一のつかまるものとして、リアンという一九五一年生まれのすでに死去したイギリス人のロックスターを用意する。亡くなったイギリス人であるためせれなが容易に近付けない、けれどもその像の形を彼女の頭の中で変えることができる、ただし実人生が存在する現実の人物、というこの設定はとても巧みだ。小説は、せれなの現実のなりゆきと、その時に彼女の頭の中で展開していたリアンとの出来事、せれなが読み進めるリアンの自伝の実像が交錯する形で進行する。
本書がただ少女が受けた虐待/虐待を受ける少女についてだけを語る小説ではないことは、リアン周りの文体や経緯、そして「子供が音楽を聴くということ」に関する記述の正確さが象徴している。せれなが夢中になるリアンの生い立ち、バンドの結成、その全盛期と女性関係と凋落、最期に至るまで、おそらくはあの時代のさまざまなロックスターの持つエピソードや来し方が完コピと言っていいほど詳細にコラージュされていて、著者の編集能力に感心した。全財産三千九百円を持って自転車に乗って百貨店のCDショップと本屋に行く、子供が好きな音楽に向かってゆく喜びと興奮も真に迫っていて、せれなと一緒にリアンを追っている気分になれるこれらの部分は楽しいと言っていい。虐待の出てくる小説なのに。
しかしそのことには本当に意味がある。弱い者は自分より弱い立場に追いやられている誰かにまとわりついて、自分のことだけを考えろと言う。でもそんなことはありえない。虐待の外にも世界はあり、そこはどうしようもなく広く遠く、せれなは、弱い立場に追いやられている誰かは、その場所とつながっていると本書は示す。現実には行くこともさわることもできないその場所から、束の間でも光が射して誰かの腕をつかむことをこの小説は書いている。
そしておそらく本書が希有なのは、その腕をつかむ側の弱さやそのことへの幻滅を描いていることだと思う。せれなが命綱にしていた幻想の裏側には、リアンの実人生という現実があった。せれなが現実を知ってゆくことへの幻滅を描きながら、さらにそれを通過する様子を描くことには、弱い立場に追いやられている誰かが、同じような者の境遇における光になるという希望と、誰かの弱さを受け入れる成長がある。
一時的にせれなの母親の立場になる、ベラさんというブラジル人の女性が本当に魅力的だ。せれなが唯一「出会った」と言える彼女とせれなが親子になれなかったことが、わたしはアホな読者として本当に悲しかったけれども、そんなことは容易にはないのだという著者の誠実さも強く感じた。
せれなという主人公の名前の絶妙さも含めて、引き締まった文体はときどき軽い。おそらくは最大のカタストロフのあとの「疲れたので、一人審議の結果このまま愛する人のことを考えながら、しばらくの間眠ることにした」という文章には、乾いた笑いがこみ上げるし、この軽さもおそらくは復讐なのだと思う。リアンとの精神的な生活が倦んでいく中での「あの男は毎日一体何をしているのだ。しいて言うならテニスの試合はよく観ている」という部分も好きすぎて忘れられない。あと、わたしは最初からジムが好きだったので、終盤で掘り下げがあってすごくうれしかったです。