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フェミニズムと「第三者の当事者性」

長島有里枝+武田砂鉄

 総勢三十一名の男性に「フェミニズム」を問いかけた、特集「ぼくとフェミニズム」(「すばる」二〇一八年五月号)。読者および執筆陣からのさまざまな反響を受け、フェミニズムについて、より発展的に思考し議論を深めるためのシリーズ「わたしたちとフェミニズム」を始動します。
 第一弾は、写真家の長島有里枝さんとライターの武田砂鉄さんの対話。「ぼくとフェミニズム」掲載翌号の連載エッセイ(「こんな大人になりました」)で、「『ぼく』とは誰ですか?」と題し、特集にたいして抱いた違和感をつぶさに綴った長島さん。特集の寄稿者の一人でもあり、世の中で行使される力の非対称性や、無意識のうちに受容されている社会の抑圧を、鋭く分析しつづける武田さん。
 現代のフェミニズムの議論は、どのように推しすすめていくことができるのか? そのさいに、個人レベルでどんなことを意識するとよいのだろうか? この対談の収録日以降に明らかになった情報も、補足するかたちで掲載します。


男・女を代表しない


武田 おひさしぶりです。
長島 おひさしぶりです。こうやってお話しするのは初めてですけれど、とある取材で、いちどご一緒しましたね。私はカメラマンとして、武田さんのお仕事ぶりをそこで拝見して、素晴らしいなぁ、どんな人なんだろうと思って、家に帰ってから調べさせてもらいました。ちょうど、デビュー単著の『紋切型社会』を出された直後だったので、すぐに買って拝読しました。
武田 そうでしたか。それはそれは恐縮です。
長島 本を読むときはつい、同意できない部分を探す癖があるんですが(笑)、それが特に見当たりませんでした。そして、何を論ずるときも真摯な方だなあ、と。武田さんの文章には、いつも励まされます。
武田 こちらこそ、長島さんの著書『背中の記憶』、自らの記憶に自ら近づいていく、その静かな佇まいの中にある執念に近い熱い筆致に繰り返し打たれましたし、「すばる」の連載エッセイも毎号楽しみに拝読してきました。この前の特集にまつわる所感を早速次の号で書かれていて、そちらも深く頷きながら読みました。
長島 ありがとうございます。「ぼくとフェミニズム」。エッセイにも書いたとおり、最初、手に取ったときはむしろ、「いいじゃん、男性にとってのフェミニズム!」くらいに思ったんです。表現者として好きな人たちの文章から読み始め、「さすが、いいこと書かれてるなぁ」と、うれしく思いました。でも、ページを捲るうち、「あれ……?」と、どんどん違和感が募っていって。
武田 何が長島さんの表情を曇らせたのでしょうか? その曇っていった経過を、具体的に知りたいです。
長島 まず、自分が抑圧者の立場にあることを認められないがゆえの、「男だって……」という主張です。それと、ほとんどの人はフェミニズムの話ではなく、男性学の話をしていたように思います。女性のことを語っているふうでも、よくよく読むと自分の話だよね、という内容が多かった気がします。だったらいっそ、男性学特集にすればよかったのに、という。
武田 帰結もそうだし、始点もそうですね。「私は男ですよ」「男として考えますからね」という立場をあらかじめ声高にアピールしすぎている原稿が多かった印象を受けます。
長島 あとは、男性性と女性性を二項対立させて、対極にあるものとしてもういっぽうの性を語るという方法には、未来がないと思っています。
 でも、一番もやもやしたのは、特集そのものの構造です。「ぼくとフェミニズム」って一見新しいような気がしてしまうんですが、男性が集まって「女」を論じるという構図は、これまでのあらゆる誌面、紙面、マスメディア、研究会、学会、なんでもいいですが、のありかたそのものだと言えないでしょうか。表現する機会と場をわざわざ与えなくても、そういう場はそもそもずっと、男性のものだったわけです。だから、まずはこの特集を組んだ編集部に対し、強烈な違和感をおぼえました。その気持ちは私の担当編集者にすぐメールで伝え、エッセイにも書きました。ただ、怖いのは、すべての執筆者の原稿が耳当たりの良い内容であったとしたら、果たしてこの重大な瑕疵に自分は気づけただろうか、と思うと自信がないということです。フェミニズムって、やっぱり難しい学問なんだと、改めて考えさせられました。
武田 実際に、あの執筆陣、あの表紙で「映画と文学」なんて銘打っても、何ら違和感はないですもんね。つまり、それが「いつも」の感じなのです。
長島 武田さんは、依頼を受けたときに違和感をおぼえませんでしたか?
武田 特集について編集部からメールをもらったのが二〇一七年末で、当初は、男性論客二名と鼎談してほしいとの依頼でした。『早稲田文学増刊 女性号』が大きく話題になっていたので、それを踏まえた特集になるのだろうと想像した上で、その依頼を断りました。
 冒頭に男たち三人の写真が載り、「ぼくたちでフェミニズムを考えてみました」と掲載される誌面を思い浮かべたとき、それがいかなる内容であったとしても、男同士で徒党を組んでいる印象は拭えないだろうと思いました。当初、特集のタイトルは「ぼくたちとフェミニズム」で、この「たち」に潜む連帯感を象徴する存在として参加したくはない。日頃から、物書きの群れに加わって馴れ合うのが好きではないのですが、とりわけこの「見え方」に抵抗感がありました。個別の論考ならば、ということで書かせてもらいましたが、結果的に、日頃の「見え方」を軸とする論考になりました。
 男たちはすぐに徒党を組みます。何かを代表して語ります。長島さんが言うように「場を与えられてきた」からこそ、すぐに連帯し、その意識を高めることができる。意識しなくても、徒党を組んだという構図によって、自然と意味が定まってしまうこともある。この対談も、中身をさほど読まずに急いで意味付けする人がいるとすれば、「ぼくとフェミニズム」という特集に、女性である長島さんが違和感をおぼえて物申し、その寄稿者の一人で男性の武田が、男を代表して、弁明なり回答なりをする、そう見えるはず。
 そうすると、「あちらから女性代表、入場です!」というアナウンスを受けて、さあ、バチバチ戦うぞって感じにも映ってしまう。そういう、シンプルすぎる流れの形成に抵抗感があります。
長島 「男性」の武田さんにとっても、男同士の絆って目につくものなんですね。写真界はいまだにホモソーシャルな場なので、公募展の審査員などの仕事でも、女は自分だけということが多いです。そこで私がなにかを言うと、それは即座に「女の意見」として解釈されます。「いや、私はそう考えるってだけで、他の女性のことはわかりません」って、いちいち断りを入れないとなりません。
武田 私は、あるいは私たちは、男や女、それぞれの代表者ではないですからね。マスコミの世界は、ランダムに二人以上集めれば、必ずといっていいほど男性優位になる。三人集めれば、おそらく二人は男で、五人集めれば三、四人は男です。そうなると自分は、自動的に、優位である男のワン・オブ・ゼムになってしまう。知らぬ間に連帯し、「男」という主語を稼働させる一人になる。その「いつも」に安心する方もいらっしゃるんでしょうが、自分はそれに抗いたいんです。
長島 なるほど。武田さんのように、分析できる人は稀だと思います。さらにそこに抵抗する人となれば、ますます少数派でしょう。フェミニズム的な問題の難しさは、自分を含めたほとんどの人が、現在の社会のありようのなかで「そういうものだ」と思いながら普通に暮らせてしまっているため、大きな障壁にぶつかったり、それを契機に勉強したり、相当考えたりしない限り、権力の不均衡に違和感すら抱けないという点にあると思います。連帯ということで言えば、フェミニズムにおいても「シスターフッド」のような女同士の繋がりを重要だと考えますが、近年、「『女』だというだけでは連帯できない」ことは自明であるとされています。日本に住んでいると、人種や階級を意識する機会がほとんどないので忘れられがちですが、女性と女性の間にもやっぱり、抑圧=被抑圧の構造があります。その点に注目するだけでも、すべての女性を代表するなんてことは不可能だとわかります。
武田 性差別やフェミニズムについて書くと、男女問わず「どうして女性の味方をするのですか」と聞かれることが頻繁にある。そのポップな反応がとても気持ち悪い。自分は女性の味方になりたいと思って書いているわけではない。抑圧されている人間がいる、組織がある。で、誰が抑圧しているんだろうと個別の事案を具体的に辿っていった時、その原因を作っているのが男である確率が、実感で九〇%くらい。で、結果的に、優位性にあぐらをかいた男性を突くことになる、というだけの話です。
長島 武田さんは男なのに、という意味ですよね。でも、個別の問題として目を向ければ、そういう話ではないわけですね。
武田 属性でなく、個を見るのは当然のことです。
 特集の滝口悠生さんのエッセイに、《「ぼく」という一人称を一方的に押し付けられてみて、〈「女性」たち〉が感じてきた生きづらさとはまさにこういうことだったと気づく。大事な気づきだが、自分が「男性」にされた、という感覚も残る》とありました。メディアに出ている女性が、出ただけで「女性性」を勝手に背負わされて紹介されることって日常茶飯事だと思うんですが、今回のように「ぼく」を強制された形で文章が掲載されることは初めてのことでした。連呼される「女性活躍社会」に対置するように「男性活躍社会」とは言われません。男性が活躍する社会が整っているからです。原稿を書く世界でも、「男性」たちが書いた、とは言われないのです。


遠巻きのフェミニズム


武田 セクシュアル・ハラスメントの事案が複数勃発しています。ジャーナリスト・山口敬之氏からのレイプを告発したジャーナリストの伊藤詩織さんを追ったドキュメンタリーがBBCで放送され、そのタイトルは「Japan’s Secret Shame(日本の隠された恥)」でした。強権で隠すケースがあれば、もはや隠そうともしないケースもある。財務省・福田淳一事務次官の女性記者へのハラスメントと事後対応を見れば、彼らには「恥」の自覚すらない。財務省がセクハラを認定する文書を出したにもかかわらず、福田氏は、公開されたセクハラの音源について、「自分の声は自分の体を通して聞くので、これが自分の声なのかどうかはよく分からない」という、苦しい言い訳を吐いて逃げました。
長島 ある恥を回避するために、別の恥が露呈していますね。
武田 長島さんも「すばる」七月号のエッセイ「第三者の当事者性」で言及された、荒木経惟氏との関係を綴ったKaoRiさんの件、そして、早稲田大学教授で文芸評論家・渡部直己氏の件など、立場の高い人からそうではない人に対してハラスメントを行使する事案が重なっている。共通するのは、その立場の高さを活かしたまま、本人や周辺が最低限の弁明で逃げ回っているところ。本誌は文芸誌なので渡部直己氏の事案をことさら強調しますが、本件を報じた『プレジデントオンライン』の記事によれば、氏からのセクハラを告発する動きに対し、早稲田大学文学学術院の「現代文芸コース」に所属する、『早稲田文学』の制作に携わっている男性教員が口止めしていたとある。このまま沈黙するのでしょうか。名乗り、言葉を発するべきです。その男性教員個人が語らなければ、全体が疑われたままになる。
長島 私はいま、早稲田大学文化構想学部で非常勤講師をしています。今回の件に関わった教授たちとの面識はありませんが、他人事とは思えないし、職場としてなんだか怖いです。ところで、事態が明るみに出た際、セクハラ隠蔽の幇助をした人の責任って問われないものですか。
武田 問われるべきです。大学という組織が、学生ではなく、教授を守ったのですから。セクハラについて把握した後で、ヘラヘラしてみる、という謎の対応をする人たちがいます。無神経にハラスメントに励むことはしないけれど、「こんなことを言ったら女性に怒られちゃうかもしれないから、やめときますね」なんて見解を述べるのを善後策だとする人がいます。とりわけ、学者や論客に多い気がします。
長島 たしかに、いますね。言葉を上手に操作できる人ほど巧妙だと思います。「こういう反論があるのは承知のうえで、あえて言えば……」みたいな言い回しとか。「ぼくフェミ」の原稿を読んで問題を感じた部分の多くは、フェミニズムについてある程度の知識がなければ、それが女性嫌悪的なレトリックだということにさえ気づけないほど、微妙なものでした。あとは、読んでも結局、なにを言いたいのかわからないとか。それも、その人の論旨が不明瞭というより「私、バカだしなぁ……」と思わされるような書かれかたなんです。
武田 シンプルなたとえで言うと、こうして日本で暮らしていると、どうしたって、アメリカのことってよくわからない。でも、トランプ政権が何をして、どういうことが起きているかは、ニュースを見たり新聞を読んだりすれば最低限わかっている。取り急ぎ「アメリカではね」とポップに言うことはできる。それと同様に、「フェミニズムはね」と言っているのかもしれない。
 聞かれる前から、「自分は知っている」前提のアピールをすると、どう知っているのかを問われずに済みます。「はいはい、知ってますよ、フェミニズム。今すごくいろいろあるよね」で済まして始まるテキストが「ぼくフェミ」にもあったと思う。
長島 フェミニズムは女性だけの問題じゃないから、当然、男性の語りも重要です。ただ、それは男性のもので「も」あるのであって、当事者の女性を排除した場を彼らに用意するというのは本末転倒です。
武田 そうですね。依頼の段階で断った人たちも結構いらしたそうです。そういう人たちが特集に出てこなかった理由の一つに、「自分は知っているけど、ここに参加するとヤバいことになるぞ」っていう抵抗感、あるいは保身もあったはず。その「ヤバい」には、長島さんが言う「自分ごととしての内面化」がない。聞けば、「自分の専門ジャンルじゃないので」と断られることが続いたそうです。つまり、「やっぱり、アメリカに詳しいわけでもないし」なんです。「自分の体の中にフェミニズムはない」と宣言しちゃう。
長島 そう考えると、この特集に登場した人たちは勇気ある、善意の人たちなのですね。
武田 距離をとる宣言をして、遠くに見えるフェミニズムの風景は描写できません、でいいのでしょうか。個人と社会の問題を区別する頭の良さを傲慢に思います。当然ですが、ジェンダーやフェミニズムの問題こそ、日ごろの暮らしに根ざしている。生活していて、「なにこれ、ムカつくんだけど」と反応したことが、政府が掲げる「女性活躍」云々の諸政策の歪みと思いがけず繋がることなんていくらでもある。遠景だと処理するのではなく、近景かもしれない、眼前かもしれないと疑うことで問題が浮かび上がるのではないかと思うのですが。


体験と当事者性


長島 今でこそフェミニストを自称していますが、もともと自分の意見を言語的に強く主張することが苦手で、反論するのも得意じゃないです。年上だったり、知識をひけらかしつつ好戦的な話し方をする男性に言い返せるようになったのもつい最近で。それまでは、なんかおかしいなとはいったん思うんですけど、面倒臭いし、「そう言われればそうかもなー」って話を切り上げることを優先してまして。
 若いころ、何人かの男の先輩に「長島は天才なんだから、ヘンに勉強しないほうがいいんだよ」みたいなことを言われた記憶があるんです。なんかムカつく言い方だな、とは思っても、どこかで勉強してはいけないんだ、って信じてもいて。いまは、それが褒め言葉なんかじゃなく単なる嫉妬であり、後輩に追い越される不安を払拭するための布石であり、抑圧だってことがわかるんですけど。感覚や思考を言語化するだけの語彙と自尊心が備わっていなくて、とりあえず飲み込むんだけど違和感は残る。それを説明できないのが、本当にもどかしかったです。
 女性がフェミニズムに興味を持つきっかけには、日々の生活の中で自分というものがほんとうににっちもさっちも行かなくなって、すがるように手を伸ばす、ということがあると思います。私の場合、まずは思春期、自分が「女」になるよう仕向けてくる社会に我慢できなくて、ボーヴォワールの『第二の性』や、ライオットガールという新しいフェミニズム運動に影響を受けました。その後、二十七歳で子どもを産んだのですが、夫不在の状態で子育てをするなか、社会が女性に押し付けてくるものへの違和感とか、そのことに対する怒りが大きくなって、ほとんど偶然のようにフェミニズムに再会しました。そういう強い実感や原動力がない状況で、男性がフェミニズムに興味を持つとしたら、どのようなことが契機になるんでしょうか。
武田 自分は、ちょっとしたことをいつまでも恨みながら蓄えておく性格なんですが……
長島 私もそうです。
武田 以前、サイボウズという会社が公開した、ワーママ応援ムービー「働くママたちに、よりそうことを。」が炎上しました。子育てという心身の労働をすべて母親に引き受けさせ、父親には「たまには、奥さんのことギューっとかしてあげてください」などと育児を軽んじる台詞があり、従来の男女の役割分担が強調される内容だった。その映像に対して感じたことを聞かせてくれ、とラジオに呼ばれ、伊藤洋一さんというエコノミストのパーソナリティーに向けて問題点を話していた。すると、番組の最後になって、彼が「今日のゲストは武田砂鉄さんでした。武田さんも、お子さんができればわかると思いますけどね」と言って締めた。
長島 ええっ、なにそれ、怖い。
武田 六十代の男性ですので、おそらく子育てが一通り終わっているのでしょう。結婚しているが子どもはいない自分に向けて、「体験すればわかるよ」みたいな先輩風を吹かせつつ、これまでの議論を一発で潰す効力を持たせた。体験しないと言えない、体験した人だけが判子を押せると言わんばかりに、けん制してきた。そうではないだろうと、ずっと根に持っています。
長島 それは、女でも同性から言われがちなことです。
武田 そうですよね。ともすれば、出産を経験している/していない、子育てをしている/していない、結婚している/していない、という条件別の対立になりがちですよね。そういう条件がそろっていなくとも、苛立ちやわだかまりを感じたのならば、突っ込んでモノを言えばいいのです。長島さんが「第三者の当事者性」とエッセイにお書きになられていたことに納得します。第三者も当事者なのだ、と強く言わなければいけない。
長島 この数年で、「当事者」という言葉を頻繁に耳にするようになりました。当事者の切実な言葉を傾聴することが重要事項であることには違いないのだけれど、「第三者には言われたくない」と思ってしまうような意見が存在することと、第三者が語る行為そのものを切り離さないと、何も言えなくなってしまうのでは、という疑問も湧きます。
武田 そのことを、特集のエッセイで、いとうせいこうさんが指摘されていますね。《〝よそものがヘタなことを言うと吊るし上げをくう〟という恐れを周囲は植えつけられ、時間が経てば経つほど「語る権利」が奪われていきます。究極、語っていいのは被害者のみになる》。この危うさを慎重に問う必要があります。第三者じゃん、と片付ける人がいる。ならば、ええ、第三者かもしれませんが、と物申していかないと。
 ワイドショーに女性のコメンテーターが出てくる。その短いプロフィールに「二児の母」と書いてある。この「二児の母」って、一体どういう意味なのかと考えると、ニュースの中で、良いニュースでも悪いニュースでも小さいお子さんがかかわっていた時に放たれるコメントの説得力、であるはず。自分は二児の母でも父でもないけれど、もし、小さなお子さんが残酷な死を遂げたなら、どこかで自分の感情として、自分の問題として、悲しむわけです。そのとき、「ああ、自分がもし、二児の父だったら、これより悲しむ度合いが高いんだろうな」とは思わない。
長島 「あなたは条件を満たしてますので、ご意見をどうぞ」って。
武田 「お前に、子育てしている人間の気持ちはわからない」って、口にはしなくとも、思っている人はたくさんいるはずです。でも、そのことを察知し、素早く自粛して黙り込むのは罪深いと思う。
長島 「第三者の当事者性」を持って、フェミニズムと向き合う。
武田 フェミニズムに限らない、とても重要な言葉だと思います。


権威への忖度を抹消する


武田 長島さんにどうしても聞きたくなるのは、やはり荒木経惟氏のことです。「すばる」の連載エッセイにも書かれていましたが、氏に見出された写真家の一人である長島さんが、この件とどのように向き合われたのか、改めてお聞きできればと思います。
長島 荒木さんを慕う写真家として、フェミニストとして、ショックでした。KaoRiさんが書かれたことの「真偽」を疑う気持ちはまったくなく、ああ、そうなんだろうな、と思いました。連載ページでこの件を取り上げるにあたって「第三者の当事者性」について書き、告発の内容に直接言及しなかったのは、荒木さんに遠慮したわけじゃなく、荒木さん側がコメントを一切発表しなかったからです。立場や考えを明らかにしないという方法には、告発の内容を否定しないという効果もあるかもしれませんが、それ以上にKaoRiさんの訴えを無視する、なかったことにするという、強い否定の効果があると思います。セレブリティや文化人のように、存在が公に認知されている人がとる手段のなかでは、一番保身可能な方法かもしれません。というのも、黙っている限り、周囲が論じるために必要な材料を一切提供しないで済むからです。材料が無い限り誰も論じないというわけではなく、あれだけ大きなニュースになった以上、これはもう荒木さんとKaoRiさんだけの問題ではないわけだから、ゴシップ的なレベルから、真面目なものに至るまで、様々な議論が人びとのあいだで交わされます。ただ、荒木さん側のやり方は、どこでなにがどのように語られようと、結局「本当のところ」はわからないという状態に、それらの言説を留めておくことを可能にすると思うのです。それから、下手に自分で語らずに黙っていれば、第三者が勝手に「真実」を推測し、自分に有利になることを語ってくれる可能性というのが高まる気がします。現時点で、私たちの社会は男性優位の規範でいっぱいの場ですから、そこで人びとに生み出される言説も、男性優位のものが多くなると思うのです。実際、私が告発について議論したアーチストの友人知人は、彼らの性別やセクシュアリティーに関わらず、KaoRiさんが置かれた状況にまったく共感を示さなかっただけでなく、即座に荒木さんを擁護する発言をしました。「ネットでみんなで一斉に叩くのはアラーキーいじめだ」とか、「ネットで晒さなくても、愚痴を聞いてくれる友だち作ればよかったのに」とか、「嫌ならもっと早く辞めればよかったのに」とか。こうした語りの根拠となるのは、自分はそうしてきたという、経験主義的な自己肯定です。最初はすごく腹が立って、それから失望で悲しくなりました。いろいろ考えて、第三者である私たちにできる最も誠実なアクションは、何も語らずに騒ぎが収まるのを待っているようにみえる加害者の態度を、擁護する効果を持つような語りを生み出さないことなのではないか、と思い至りました。
武田 このことで荒木さんの芸術性が損なわれるわけじゃない、といった擁護をしている人もいましたが、そんなことは聞いていない。山口敬之氏の時も、彼に味方する周囲の評論家たちは事件そのものではなく、彼の仕事の価値を持ち上げた上で、その将来を心配する。繰り返すけれど、そんなことは聞いていないのです。どうでもいい。
 森友・加計問題のような現代の社会問題の多くは、要素がいくらでも複雑に絡み合っており、一発で指摘したり解決したりすることが難しい。だからこそ、事実を一つ一つ検討しつつ、時間をかけて疑問を投げかける。それに比べれば、ハラスメントの問題はシンプルな話です。傷んでいる人がいます。傷めた人がいます。傷んでいる人のことを考えましょう。傷めた人は何をすべきか考えて下さい。以上です。なのに、セクハラ案件では、加害者への注目を低減させる方法がやたらと模索され、問題の核心から外れた論点がこねくり回される。アラーキーの芸術性だとか、山口敬之氏のジャーナリストとしての力量、渡部直己氏の功績なんていうものは、冷静に考えて五番目、六番目ぐらいに考えればいい。それどころではない。
長島 私もそう思う、ほんとうに。
武田 なのに、周りにいる面々が、加害者と密にコミュニケーションしてきたという「当事者としての経験」に準じた主張を始める。それが、いかにも最優先すべき論旨のように見えてしまう。
長島 「あのときお世話になったから」とか、「先輩だから」とか、そういう事情を自分から切り離すのは難しいと思います。
武田 そんなの気にしないようにすべき。先輩だろうが後輩だろうが、思ったことは言うようにしています。たとえば、宮本輝氏が芥川賞の選評で温又柔氏の『真ん中の子どもたち』を《日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい》と評したことにも、伊集院静氏が「週刊文春」の人生相談のエッセイで、新幹線で騒ぐ子どもに対して、《窓から放り出したくなるよ。そういう母子は生きている必要はないと思っとる》と書いたことにも、これはおかしい、と指摘しました。当然のことです、放たれるべきではない言葉なのだから。いわゆる文筆業のトップにいる人たちを批判することになるので、少し前の流行り言葉で言えば「忖度」して、書くのをやめたほうがいいのかもしれません。でも、ダメな発言には、「ダメだろ」と言うべきです。「勇気あるね」なんて何人かに言われたけれど、その褒め言葉は奇妙です。とりわけ狭い業界の、上の人たちは温室のなかで守られてきた。温室でお囲いになるのは自由ですが、そこから漏れ聞こえる言動に違和感をおぼえたのであれば、温室の外から、温室に向けて言葉をぶつけさせていただく、ということです。
長島 家庭内の問題、機能不全家族やアダルトチルドレンの問題などにも興味があるのですが、最も難しいのは、自分の愛する人が加害者であるという事態だと思います。カウンセリングなどを通じて被害者が学ぶことのなかで、私がとても感銘を受けたのは、自分が加害者を愛する気持ちと、加害者が自分にしたことを切り離して考える方法でした。荒木さんの問題を考えるときに思い出したのは、この考え方でした。
武田 身内を守るために、実にくだらないことまで肯定の材料にする人がいますね。たとえ話ですが「あの人、今、問題になっているけど、むかし俺が緊張でノドがカラカラになってたとき、オレンジジュースをさっと差し出してくれたんだよね」みたいなどうでもいいエピソードがあったとします。
長島 超どうでもいい!(笑)
武田 超どうでもいいんだけど、そういうことでも、「実際あの人は、そういう気配りのできる人なんだよ」みたいな良い面として強化できる。そのことと、今起きている苦境を連結させて、「ジュースを差し出してくれる人」に重きを置くことは、話のうまい人やある程度のテキストを書ける人だったらできてしまう。知り合いであるということを重視すると、かなりの悪を守ることができる。もっともレベルの低い「エセ当事者」です。
長島 確かに。
武田 どんなに下らないエピソードでも連結する、それをもとに周囲で連帯して価値を大きくしていく。すると、真ん中で傷んでいる人たちが、どうでもいいオレンジジュースのネタで潰されかねない。
長島 大事なのは、連結ではなく切り離しです。
武田 そう思います。そして、言葉を発しない、は悪しき意見表明なのだと周知させていかなければいけない。「ここは言わないでおこう」という判断を「冷静な対応」と言うのは評価しすぎです。話してください、と言いたい。
長島 「何も言わない」ということも、厳しく問われるべきなんですね。


「守るべきもの」とは


長島 私のほうから武田さんにお訊ねしたかったのは、どうしたら武田さんのような感覚や考えを持つ男性が育つのか、ということなんです。息子が中高一貫の男子校に通っていて、女性の視点に触れるということを経験しづらい環境で日々過ごしているのですが、彼にも、武田さんみたいに物事を考えられる人に成長してほしいと思うんです。
武田 何かしら意識していたわけではなく、色々と歪んだまま固形化させたら、いわゆるマチズモが体の中に少なかったという感じでしょうか。中学時代から、とにかく体育会系社会というものが嫌いでした。そこに理由なんてないのに、年上だからとか、ずっとやってきたからで行動が定まる感じ。斜に構えて、そのレールをどうやって外れるか、逆走できるかってことばかり考えていましたね。高校時代、超弱小バレーボール部のキャプテンをやっていたんですが、バレー部の掟として、先輩の前を通るときに屈んで通るというものがありました。そんなの意味がないと撤廃しました。
長島 ほんとうに撤廃できたんですか?
武田 はい。バレーのコートを設営するのは下級生、っていう下らないルールも撤廃しました。体育館に来た人からやればいいと思ったので。すると、OBの面々から「今までやってきたことなのに、何でオマエは守らないんだ」とお叱りを受けました。そのまま無視して引退したら、自分たちの代だけ、現在にいたるまでOB会に呼ばれないんです(笑)。行く気もありませんが。
長島 すごいですね。
武田 これは一つの例ですけどね。あらゆる方面で、慣習への疑念がありました。「慣習とやらを作っているのは、どこのどいつだ?」と探るうち、男性社会の凝り固まりを発見していったという流れでしょうか。母親も働いていたし、母の姉や祖母が働く女性たちだったことも、いわゆる男性社会をモデルにしなかったという点で、大きく影響していたのかもしれません。伯母は長年コピーライターをしていたし、祖母は今、九十八歳ですが、何年か前までずっと一人で下着屋さんをやっていたんですよ。
長島 へえ! すてきです。
武田 この一家はとにかく口が悪い。下着を売りつける人がみんな死んじゃったから店を閉じる、なんて言っていた。その女性たちの、鋭い口調を間近で体感してきました。すぐそばで、一人で淡々と自分の意見を言い放っている姿があった。男性が弱い、女性が強い、というか、自分の意見を持ちなさいと繰り返し言われてきました。
長島 そうか、そういう環境的な要因があったんですね。うちの家族も口が悪いから、お話を聞いてちょっと嬉しい。
武田 「先輩の前を屈んで通らなきゃいけない? なんで?」という義憤は、いまこうして書いていることと連動しています。連動というか同じことを書いています。
長島 きっと、そうですね。執念深いということなのかしら。
武田 根に持っているんですね。しかも、その恨みみたいなものは、いつでも掘り起こせる状態で自分の中に保存されている。昔の友人と会い、「あの日あのときのムカついた話」をすると、「えっ、何その話?」と驚かれる。「覚えていないの、中二の四月のあの話だよ」と言うと、ポカンとする。そういう忘れられない怒りが、未だに執筆のエネルギーなんですね。年を重ねると苛立ちが積み重なっていくから、苛立ちの貯蓄みたいなものは増える一方です。
長島 大学ではどんな勉強をされたんですか?
武田 大学にはほとんど行かず、映像制作会社でADをしていました。
長島 それはまた、強烈な体育会系社会でしょうね。
武田 撮影が長引いた夜中の三時、理由もなく、カメラマンから蹴られたお尻の痛みを忘れません(笑)。
長島 テレビ制作の現場なんてそれこそ男社会だろうし、武田さんにとっては地獄のようだったでしょう。
武田 酷かったですね。非道しか道がない感じでした。
長島 世の中にはそういう「体育会系」に染まれる人もいて、好き好んでではなくても、環境に適応できる人も多いんじゃないかと思うけれど、たとえばバレー部時代の級友とか、AD時代の仲間とは、何を話すんですか? 会話って成立しますか?(笑)
武田 あまり成立しませんね。自分が今、同世代の男と話していて絶望するのは、彼らの保守っぷりの発芽を実感する時なんです。あたかも高度経済成長期のサラリーマンのように、フォーマット化された生活に体を押し込めることで社会に期待を持つようになる。「武田もさ、ライターとかやっているけど、生活、大丈夫?」みたいな心配をされるわけです。生活、大丈夫です。
 自分は四年前に会社を辞めたんですが、同僚の女性たちは「おもしろそうじゃん」「どういうことを書こうと思っているの」「何かあったら仕事しようね」と言ってくれた。一方、男性たちはこぞって生活の心配をして、「奥さん、大丈夫って言ってる?」と聞いてきた。安手の心理学者みたいに、男と女の比較で「あるある話」として語りたくはないのですが、くっきり分かれたのです。
長島 へえ、そうだったんですか。
武田 社会が用意した道ではないところに行こうとする積極性に対して、「本当にそれでいいの?」と圧力をかけて踏みとどまらせるのが大人の対応だと思っている節がある。これだけ生き方が多様化しているのに、従来のフォーマットで労働観・家族観を再生産しようとする。そのことに躊躇いがないのです。
 それに飲まれたくないので意見を返すと、突然、持ち上げて、「おまえはいいよな、自由にやってて。こっちは守るべきものがあるんだよ」とか言われる。
長島 出た! でも、それが多数派の意見なんでしょうね。なんでだろう。
武田 今、どんなジャンルの話を問われても、みんなポジショニングをすごく気にしますね。政治的な見解であろうが、芸能人の不倫に対してであろうが、意見を問われたとき、どういう立場に立ったほうが安全であるかということばかりが意識されている。
 あなたも当事者だ、だから、あなたの意見を自分は聞きたい、と思うのだけれど、主体性を持った積極的な意見を交わせる男性の友人が周囲にあまりいない。主語が自分ではなく、「俺たち」とか「社会」とか、いつの間にかでっかくなるのです。だから最近、「イイ男いない?」って聞いてまわってるんですよ。
長島 なかなかいないですよね。話のできる、イイ男。
武田 いたら紹介してください。


感情を生かしつづける


長島 私は物事をちゃんと理解したい欲求も強いし、小さなことに怒りをおぼえてすぐ意見もするからか、息子が地元の小学校に通っている時代はママ友ができませんでした。子育てを通じて参加する人間関係では、自分の個性を押し殺すのが「正しい」処世術だと思い知らされることが多いんです。でも、武田さんとお話しして、「怒っていいんだ」と、励まされました。
武田 どんどん怒りましょう。自分が今現在怒っているのは、さっき電車の車内広告で見かけた、精神科医・和田秀樹氏の書籍『感情的な人に負けない本』の広告。「いつも機嫌よく」と添えられていた。で、その広告を見て、ものすごく感情的になって、機嫌が悪くなりました。
長島 だめじゃないですか(笑)。
武田 「いつも機嫌よく」だなんて、ふざけんじゃねえよ、このご時世にいつも機嫌よくいられるほうがどうかしている、と思う。でも、こういう指南本が売れるんですね。
長島 そうなんですか!?
武田 あと、先日は、安藤俊介氏の『アンガーマネジメント入門』という本も読んだんですが、読みながら怒っていました。
長島 ぜんぜんマネージできてないじゃない(笑)。
武田 自分が思っていることを、まずそのまま吐き出すのはやめましょう、などと言うわけです。
長島 怒る前に五秒待って深呼吸しろとか、そういうこと?
武田 はい。もちろん、感情をそのままぶつけていたずらに人を傷つけることはあってはならないけど、「おまえの感情ではなく、世の中の流れに体を合わせよう」との圧が強まっているように感じられて。
長島 そういうのが売れ筋なのか。そりゃ、私の本が売れないわけだ(笑)。
武田 感情を殺して社会生活を送る、人前に出るときに感情を整えておく。ママ友の会合であろうが、会社の会議であろうが、どの場面でも求められていることなんだと思います。
長島 どうして感情はだめなんですか。冷静な話しぶりで、とんでもないことを言っている人っていっぱいいるのに、感情的になると、「ヒステリーが始まった」みたいな片づけられ方をされがちです。
武田 自分の目の前に、とても感情的な人が来たら、どう対応していいかわからないという危惧があるからこそ、その感情の発生を嫌がるのでしょうか。感情に対する恐怖は「わからなさ」への忌避とつながっていると思っています。今、あらゆる問題に対して、一つの単純な答えを求めようとする傾向があります。
長島 短絡的な結論に急ごうとするきらいは、ありますよね。
武田 今日こうして、明確な答えが出るはずもないテーマでもう二時間以上もしゃべっている。答えを期待されている方には申し訳ないですけれど、この対談を読み終わっても、気分爽快、問題解決とはならない。答えがわからないからこそ、しゃべっているわけです。
長島 そうなんです。わかっていたら対話なんて必要じゃない。
武田 もうひとつベストセラーの話をすると、最近、『1分で話せ』ってタイトルの本も売れています。
長島 えっ、どういう中身なんですか?
武田 タイトル通りです。《1分でまとまらない話は、結局何時間かけて話しても伝わらない》んだそうです。つまり、この対談は、最初の十行くらいで終わらないといけなかったのです(笑)。
長島 みんながそういう話し方をするようになったら、怖いですね。話すほうも聞くほうも、すべてを理解したような「万能感」みたいなものは味わえるかもしれないけど。
武田 今、「一冊の本」というPR誌で「わかりやすさの罪」というタイトルの連載をしています。あらゆる場面で、すぐに「わかりやすい」ように整理された状態に持ち込むことがベストと思われている。ところが、「どうやってすぐにわかってもらえる状況に至らせるか」ばかりが重視されると、考え方云々ではなく「交通整理うまいヤツ選手権」になってしまう。論旨の切実さや誠実さは軽んじられ、わかりやすいかどうか、それこそ一分で伝わる耳触りのいいフレーズだけが乱立していく。安倍晋三、あるいはトランプ、かつての橋下徹にそれを感じます。本来、「結論はわかりませんけど、引き続き考えます」とする人のほうが信用できるはずですが、ダメです、1分で話せ、と言うのです。
長島 私はつねに疑問を持って怒っているけれど、それらの問いをどれだけ追求しても、何かを完全に理解するどころか、余計にわからなくなることの方が多い気がします。わからない状況が維持されていることが、自分にとっては基本の状態です。他者がなぜそういうふうに思うのか、なぜその表現を用いたのか、世の中の仕組みはどうしてこうなっているのか、理解に苦しむとき、想像することが重要なんだと思っています。
武田 そう思います。自分は様々なジャンルの原稿を書いていますが、結論は全部一緒になる。「多様性を認めませんか」、ただそれだけを書いていると言っていい。政治でも、芸能でも、メディア論でも、そして今回のようなジェンダーの問題でも。「こうであれ」っていう確定があちこちでなされていて、それが人の動きを制限している。そのことに危機感をおぼえます。
長島 物事を「こう」と確定するときって、他の視点の可能性を想像する作業をはしょらないとできないですよね。
武田 だからこそ、あえて世の中のやりかたに逆行して、一つずつ時間をかけて想像しながら、わからないことに対して自分の言葉を投じていく。自分にできることは、これくらいしかないと思っています。
長島 いやあ、こんなに話しても、まだまだ話したりないです。
武田 答えの出ない問いばかりです。それぞれに苛立ちを溜めて、改めてお会いできれば嬉しいです。1分で話せることなんてないんですから。
長島 苛々をなるべく溜めたくはないですが、再会を楽しみにしています。

(2018.6.18 神保町にて)構成/編集部


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