いとうせいこう「私はフェミニストです」

2018年5月号より

 私の友人にみうらじゅんという面白い人がいて、彼はある時から「女性を傷つけないこと。子供を傷つけないこと」を最優先に生活し始めました。それまでの自分を反省し、どんどん家事に参加し、威張らず、子供が熱を出せば付き合い(それもかなり重要な)を断って付き添います。それどころか、誰か他のお母さんが駅の階段でバギーを持ち上げているのがしのびないと言って、時間があればしばし駅で周囲を見ているらしいのです。もちろん見つけたら手伝うために。「そこまでが当たり前」と言って。
 そんな彼が昨年、私の似顔絵を変形して『あらいぐませいちゃん』というキャラクターを作り、イベントのグッズにさえ使わせてくれたのでしたが、数か月経ってよく聞いてみると「いとうさんは洗い物が足りないと思うんだよね。もっと洗わせてくれと自分からお願いするほど洗ってこその『あらいぐませいちゃん』なのに」と言う。つまり私が家事を多く分担するように、彼はそのキャラクターを作っていたらしいのです。
 重要なのは、彼が私に対してユーモアを最大限に使ったということです。彼が持つパワーはその時、先輩であるとか激しい言い方をするとかで生まれたのでなく、私の性格も見抜き、結果が思い通りになるだろうことを予想して考えられたがゆえに(あらいぐまが本当は洗わないというボケも含めて)見事に機能しました。
 私はそういう方法を選んだみうらさんをフェミニストだなあと思っています。少しでも権力をふるう者を「権威濃すぎ(ケンイ・コスギ)」と呼んで嫌うこともその証左だし、一緒に女人高野・室生寺を再訪した時「すべての女の人が幸せでありますように」と小声で手を合わせたのも知っているだけに。彼は決してそう名乗らないけれど。
 さてしかし、私自身は積極的に名乗ることにしました。みうらさんに導きを受けている遅れた人間であれ、私はフェミニストです。
 家事分担の平等の件はむろんのこと、この数年、性暴力に関する作品を書こうとして資料をあれこれ読んだり、告発する被害者に対するひどい非難が女性の側からも強く起こることや、フラッシュバックによって何度も被害にあうに等しい人々のことなどを学ぶにつけ、自分がそう名乗ることがまず重要だと思うに至ったからです。
 ご存知のようにこの「フェミニスト」という言葉は、古くから各国で繰り返し攻撃を受け(バックラッシュというやつです)、〝こうるさい年寄り女〟〝短髪のモテない女〟、もしくは〝他人の弱みばかりあげつらう裏切り者の男〟といったイメージで括られています。女性が自らの権利を主張する時、必ずこのバックラッシュが起き、私たちはイメージ操作され続けている。
 おかげでということでしょうか、フェミニズムは細分されているように見えます。これは私が体験的に知る限り、例えば今でも水俣病患者が、あるいは東日本大震災の被災者が補償や移住において分断されていることとよく似ている気がします。
 どのケースでも、〝よそものがヘタなことを言うと吊るし上げをくう〟という恐れを周囲は植えつけられ、時間が経てば経つほど「語る権利」が奪われていきます。究極、語っていいのは被害者のみになる。ところが被害者こそ語るのが辛い境遇にあります。彼らは思い出したくないほど傷つけられ、時には死者となっているのだから。いや、その前に必ず以下のようなバックラッシュがある。〝主張する者はずるくて得をしている〟と。
 これは性暴力に限らず、日常的な性差別、抑圧にも言えることです。さらに人種差別にも。だからこそ、私はまず自分がフェミニストだと言うことが先決だと思っているのです。派閥に分かれて見える運動ならそれぞれに学び、お前はフェミニストではないと言われたらよく聞いて納得し、あるいはまるでわからないと首を横に振り、自分が「語る権利」を苦しい隘路の奥に希求してやまない。その態度は専門の研究者でも同じであるはずなのだから、私もまたそうあるべきなのです。
 ということで、世界の理不尽な構造、非対称性に自分も加担していることに気づいたのであれば、その時からフェミニストと名乗ればよく、名前に忠実でありたいと私は思っています。
 以上、私はフェミニストです。
 今度みうらさんにも話してみます。