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捕虜とはいえ陶工たちへの、島津の保護政策は手厚く、沈家は士族の待遇を受け、江戸期、明治維新と時代の潮流にも対応し、日本の陶磁技術に大きく貢献した。特に十二代は透かし彫り、浮き彫りを工夫し、瓶には繊細な彩色と彫刻を施し、薩摩焼を芸術品に高めた。
それを問うと「その疑問は子供の時からあった」と沈さん。薩摩焼の名門といわれながら、一方では差別的な嫌がらせも後を絶たなかったと言う。大学卒業後京都の工房で修業を積み、ひと通りの技術をマスターしたと思った二十代半ば。自信が根こそぎ揺らぐ出来事があった。 「母が僕にパン皿を一枚焼いてくれと言った。でもいくら考えても頭に浮かぶのは過去の名品ばかりで、何度トライしてもどこかで見たようなものしか作れないんです。自分の愛する母のためにたった一枚の皿も作れない。それがきっかけでイタリアで勉強しようと思い立った」 一九八六年、二十六歳で伊・ファエンツァの国立美術陶芸学校へ留学。気負いが先に立ち、さらなる迷いが生じた。 「僕の存在を証明するのはこの赤いパスポートだ。でも僕は朝鮮人、でも日本人だ。俺は誰なんだと心が揺れた」 しかし、仲間と陶芸を勉強するうちに少しずつ迷いは晴れていったという。 「十五人のクラスのうちイタリア人はたった二人だけで、あとはアメリカ、カナダ、ドイツ、南米などみんなお国も言語もバラバラ。そんな仲間とつきあううちに、ああ仕事はどこでもできるんだなと自分が解放された気がしたんです」 そして四百年の歴史を持つ薩摩焼とは一体何なのか。人種の枠を越えた解放感の中で、その新しい形が朧げながら見えた気がした。技術と発想の逆転である。 「イタリアの授業では、まず何かを創ろうとするとき、その理想形を頭に描き、それを文章や図解で徹底的に追求する。まず発想ありきでその後に技術を考える。日本ではまず技術ありきで、そこにとらわれすぎて母のパン皿が創れなかった。これはいいヒントになりました」 沈さんには、もう一つ大きな課題があった。自分のルーツである韓国に行くことだ。DNAの正体を見極めるためにどうしても必要な旅であったに違いない。帰国して二年後に再び日本を出発。韓国の陶芸大学の面接を受けることに。しかしこの時、大迫一輝という日本名で願書を出したことから、思わぬ結果になる。 |
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