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「愛とウイルス」辻仁成『十年後の恋』 原田ひ香

辻仁成『十年後の恋』

本体価 1700円
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 日常に起こる事件や事故を題材に取り上げることは小説家にとってよくあることだが、ことが大きな災害や事件……国民すべてが当事者になり得るようなもの……となると取り扱いがむずかしい。先の東日本大震災などがまさにその良い例だし、もちろん、今現在、世界を覆っているこの「新型コロナウイルス危機」(歴史的になんと呼ばれるかもわからない)もそうだ。
 だから、この物語がコロナと恋愛を真正面から扱っていると聞いて、大きな期待を胸に抱きながら手に取った。
 舞台は二〇一九年の夏、まだコロナの気配などみじんも感じさせないパリのバーで、三十代後半のマリエ・サワダが還暦の紳士アンリ・フィリップと出会うところから始まる。
 マリエはフランス生まれフランス育ち、国籍はフランスで両親は日本人だ。ひどく自分勝手な精神科医と離婚して十年、二人の娘を母親の協力のもと育てている。小さいけれど、評価の高い映画会社でプロデューサーをしていて、この十年は文字通り髪を振り乱して、仕事と育児に没頭してきた。
 一方、アンリも離婚していて、子供が二人いるし、その子にはさらに子供、つまりすでに孫がいる。
「マリーは人を信じるのが苦手なの?」
 それが、アンリが最初に何かの意思を伝えようとして向けた言葉(アンリはマリエをマリーと呼び間違えている)で、それが後にどれほど大きな意味を持ってくるか、私たちは思い知ることになる。
 二人で会うようになっても、アンリはマリエに、端的な言葉を使うなら、手を出してこない。ただ、高級レストランで食事をし、バーで飲みながら語り合って家に送り届けるだけなのだ。マリエは苦悩し、ますます彼に惹かれることになる。これはマリエの十年ぶりの恋であり、戸惑いながらもそれを手放したくない。
 読者である私はこの先にコロナがパリや世界を襲うことを知っている。その中でこの引っ込み思案な紳士との恋の駆け引きが小説の主題となっていくのだろうか、と浅知恵で考えていた。しかし、その矢先に二人の間にはさらなる問題が起こる。 
 マリエはアンリの態度に不安を抱くものの、昔は彼の父の家だったという邸宅を改造した別荘への一泊旅行で仲を深め、彼をまた信じるようになる。しかし、それを見計らったように、アンリから、自分の祖母の人生をもとにした脚本を読んで欲しいと頼まれる。
 これがまたマリエと読者の気持ちを引き裂く。作家や編集者、脚本家、プロデューサーなど、この手の仕事に関わっていて、人から「自分の作品を読んで欲しい」と頼まれることほど悩ましい問題はあるだろうか。それが近しい人間であればあるほど、心の中に大きな赤信号が灯る。恋愛が始まったばかりの男女ならなおさらだ。マリエの中でも、そのためにアンリは自分に近づいたのではないかという新たな疑いが持ち上がってくる。さらに、コロナや彼女が関わっている映画作品の進捗状況などが作品を動かす。
 もともと、アンリがなんの仕事で生計を立てているのかは謎だった。マリエが尋ねても、さまざまな新事業について説明するばかりで、ネットで調べてもそれらしきものは出てこない。疑いが少しずつ大きなかたまりとなって、マリエを翻弄する。読者もまた、この謎に引き込まれて、ジェットコースターのように感情が上がったり下がったり、振り回される。恋愛というのは不安定の上に大きく育つのだということを、改めて強く認識した。
 作中、二〇二〇年のフランスでのコロナの状況が随時差し挟まれる。確かに、あの頃はこんな感じだった、とまだわずか一年足らずなのに、まるで昔話のように思い出し、日本とは少し違う、フランスの感染状況がわかって大変興味深かった。
 いったい「愛と信頼」というのはどこまでイコールなんだろうかという根源的な問題に、読みながら何度も立ち返った。そもそも、人を愛するということは、その人のすべてを信じるということなのだろうか、信じずに愛するということはいけないのだろうか、と。
 最新の認知神経科学では「客観的な事実や数字は他人の考えを変える武器にはならない」という研究結果があるという。認知能力が優れている人ほど、情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータをゆがめてしまう、らしい。まさに、ネット上にさまざま転がっている陰謀論に、専門家でさえも立ち向かえない、昨今の現状であり、それは恋愛というものの恐ろしさにも通じるのではないだろうか。
 読書中、私は七転八倒し、マリエと一緒にアンリに振り回されながら苦しみ続け、寝食を忘れて夢中になり、一晩で読んでしまった。
 読み終わったあとは、とにかく、誰かに読ませて、その感想を聞きたいと強く願った。相手は二十代の頃ともに恋愛で戦った友がいい。そして、「どうだった? あなたは彼をどう思った? ラストシーンはどうだった?」と問い詰めたくなった。できたら、こぢんまりしたフレンチレストランの片隅で時間を忘れて、ゆっくりワインのグラスを傾けながら口からつばを飛ばし合っておしゃべりしたい。コロナ第三波の中、家に閉じこもりながら、そんな当たり前の時間がどれほど貴重だったのかと改めてしみじみと感じさせる小説だった。

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