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「生物学的な性差がテクノロジーによって解消されたとしたら?」山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』 清田隆之

山崎ナオコーラ『肉体のジェンダーを笑うな』

本体価 1600円
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 ジェンダーとは「社会的・文化的に形成された性差」を意味する言葉だ。持って生まれた「生物学的な性差(=セックス)」とは区別されており、常識や教育、周囲からの扱われ方やメディアが発するメッセージなど、様々なものの影響を受けながら後天的に形成されていく。いわゆる「男らしさ」「女らしさ」、そこから派生する規範意識や役割分業などがそれだ。
 でも、その〝らしさ〟の元になっているものは何かと問うと、結局のところ生物学的な性差ではないかと見る向きもある。男性と女性では生殖にまつわる機能が決定的に異なるし、個体差はあれど、全体で見れば明確な筋力差や体格差も存在する。だから女は男に守ってもらわないといけないし、子育ては女の仕事、力仕事は男の役割と大昔から相場が決まっているのだ──と、社会に流布している男女差を理に適ったものとして肯定する声も根強い。でもでも、じゃあ、その生物学的な性差がテクノロジーによって解消されたとしたら?
 本書は4つの作品からなる小説集だ。医療の進歩によって男性でも母乳が出せるようになった世界を生きる夫婦の物語「父乳の夢」。機械を装着することで筋力差がなくなり、性別による役割分業が問い直されていく「笑顔と筋肉ロボット」。性差への理解を深めていったら月経が訪れるようになった男性の変化を描いた「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」。顔認証システムの存在がルッキズムの呪いを解きほぐしていく「顔が財布」。どの作品にもジェンダーギャップを埋めるための技術や道具が登場し、ユニークなSFのようでありながら、すぐそこまで迫っている未来を描いているような、そんな不思議な手触りがある。それはおそらく、本書の扱う問題がこの現実世界と直結しているからだろう。
 例えば「笑顔と筋肉ロボット」には、幼い頃から「女の子は小柄で非力」「重い荷物は男の人に持ってもらえ」「そのためには愛嬌や挨拶、感謝の言葉が大事」といった教えを親からひたすら受けて育った紬という女性が登場する。彼女はそれを愚直に実践し、力仕事を進んで担ってくれる〝優しい〟伴侶を得るに至るのだが、一方でモヤモヤした思いをずっと抱えている。
〈相手の筋力を尊敬し、経済力に感謝し、自分にはその力がないと何度も何度も思わなければならない。かわいげを出さなければならない。頭を撫でてもらわなければならない。それが人生なのか〉
 そして紬はある日、たまたま広告で見かけた「筋肉ロボット」に心惹かれ、通販で購入する。それを身につけるや否や……それまで夫に頼まなければいけないものと思い込んでいたウォーターサーバーのボトル交換が楽々とでき、手の届かなかった蛍光灯の笠の掃除も一人でこなせるようになった。テクノロジーによって力を手に入れ、自由と仕事を取り戻し、それが尊厳の回復につながっていく。この流れは別の作品にも共通しており、女性たちの解放の物語になっているのが本書のひとつの特徴だ。
 一方、男性たちにも様々な変化が起きる。紬の夫・健は当初、筋肉ロボットに対してネガティブな印象を抱いている。重い物を持つことは苦じゃない、君がやる必要はないし、遠慮なく僕を頼ればいいと妻に冷や水を浴びせるのだが、やがて「自分が必要とされなくなるのが寂しかった」ということに気づき、今後は自分が楽しいことをやればいいのだと悟る。これは健にとって性別役割意識の解体であり、ジェンダーの呪縛から解放されていく姿が興味深い。
「父乳の夢」に登場する哲夫は、元から「お父さんになりたい」という強い思いを持っており、育児にもフルコミットしている男性だ。しかし一方で、自分が出産や授乳のできない性別であることにコンプレックスを抱いている。その解消にひと役買ったのが、ホルモン剤の注射や服薬によって乳房を発達させ、男性からも乳が出るようになるという医療技術だ。父乳育児を始めた哲夫は自信をつけたり母親の気持ちを追体験したり、落ち込んだりプライドを肥大化させたりしながら様々な変化を経験し、親としての意識や心構えを育てていく。
〈出産や授乳で絆を作ろうなんて、そんな甘いことを考えちゃだめだったね。他のことで絆を……、いや、絆なんていらないんだ。毎日おむつを替えて、一緒に出かけて、周りに挨拶しようとして、うまく挨拶できなくて一緒に泣いて、転んで怪我して、(中略)失敗したところに寄り添って、みんなに置いていかれても信じて、待って、じっくり話を聞いて、なんとなく親になっていくのかもしれない〉
 本書のタイトルにもある「肉体」とは生物学的な性差を決定づける根拠のようにも思えるが、もしもテクノロジーによってそこに変化が生じたら、性差というものはどうなっていくのか──。そんな思考実験を通じて見えてきたのは、ジェンダーとは決して絶対的なものではなく、グラデーション的でいくらでも揺らぐし変わるし、利用したりしなかったりすることもできるし、そもそも男女二元論すら怪しい、自由で気軽で適当なものなのかもしれない……ということだ。紬は筋肉を手に入れたことで人生の可能性が飛躍的に広がり、哲夫は父乳によって育児への考えが二転三転し、そういう中で子供と一緒にもがいていくことで親になるのだと悟った。「キラキラPMS(または、波乗り太郎)」の太郎に至っては、何ごとにおいても冷静かつフラットに対峙すべしという哲学が大きく更新されることになる。生理やPMS(月経前症候群)を身体的に経験したことにより、上下左右に揺れ続ける往復運動の中を生きることが人生なのだと思うに至る。
 こうしてそれぞれが「男女」から「個人」へと変化していく姿にとても感銘を受けた。もちろんジェンダーの呪縛はなかなか根深く、事実、本書では一度も「男性」「女性」という言葉が使われていないにもかかわらず、私はその名前や言動によって登場人物の性別を勝手に規定してしまった。性差からの解放は簡単なことではないけれど、それらと格闘した先に見えてくるのが個人としての「私」なのかもしれない。

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