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「犬になること」山下澄人『月の客』 都甲幸治

山下澄人『月の客』

本体価 1700円
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 たとえば、犬だ。フランツ・カフカの『審判』でKは、突然家に現れた二人組の男に、何かの罪で自分が訴追されていると告げられる。だが自分が何かを犯した記憶はない。他人の家の天井裏にある裁判所に行っても、やっぱり事情はわからない。だがじわじわと追い詰められていき、やがて「犬のようだ」と叫びながら、男たちに首を切られて死ぬ。  しかし本作では犬であるのは悪いことではない。盲目の男はトシに言う。「目玉があるのも不便やのー/男には風も見えたし、音も見えた、息を吹きかけたのが誰なのかわかった、/いぬと一緒や/においが見える」目が見えれば目に頼る。だから暗闇では何も見えない。だが犬は、匂いで世界の地図を描いて正確に動く。だからジャック・ロンドンが『野性の呼び声』で描いたように、北極圏でも少しの食料や炎を嗅ぎつけて生き続けられる。
 そもそもなぜ犬のようにあることは、悲惨と同等視されてきたのか。文明の中にいれば、自分が身体を持つ生き物であることを忘れられるからだ。ただ人間の顔を見ながら、人間の作った掟や常識の中で漂っていればいい。そして安全・安心という幻想の中、多くの金を稼いだり、多くの関心を集めたりするゲームに興じればいい。
 だが、緊急事態にはそんな思い込みは破れる。そして我々の、生きる意思を持つ身体がゴロリと顔を出す。疫病でもいい、大災害でもいい、戦争でもいい。誰が悪いとか、誰がどうしてくれないとか言っている間に我々は簡単に死ぬ。だから目の前のことを見据えて、直感を使いながら、とにかく生き延びる可能性の高い選択をし続けるしかない。
 本書の主人公であるトシは、生まれた瞬間から緊急事態を生きてきた。口をきけない母親は押し入れに篭もり、ひたすら帳面にカタカナだけで文字を書き続ける。父親はトシの出生とともにいなくなった。引き取られた先でも暴力を振るわれ、死なないためには逃げ出すしかない。
 そして彼は、神社にある洞穴に住み着く。だが彼は一人ではない。近所に住む、障害を持ったおっちゃんが獣の捕り方を教えてくれる。飯盒をくれて、米の炊き方を教えてくれる。「いぬ」と名付けられた犬たちは、何度死んでも別の姿でトシの前に現れ、彼に温もりをくれる。そして酔った母親に階段から突き落とされ、脚が不自由になったサナもまた、洞穴に姿を現す。やがて彼女はトシと愛し合うだろう。
 トシは民家から米を盗み、鳥や蛇を捕らえて食べる。あまりにも長く犬と暮らしていたので、犬のように鳴けるようになり、その特技を買われて見世物小屋で働く。犬になったトシの声を聞いて、何より観客よりも犬たちが喜ぶ。トシは犬を見下さない。だから「犬のよう」になることにためらいがない。その敬意を犬たちも感じる。
 おそらく戸籍もないトシは、社会の片隅で、見えない存在として生きてきた。けれどもそんな彼の生き方が、先進的なものとなる時がやってくる。大地震だ。登場人物たちが全員関西弁で話しているからには、これは阪神淡路大震災なのかもしれない。あるいはここはアイヌの言葉で「地の果て」という地名だという記述があり、しかも放射線障害のように腹が膨れて何人も死ぬという設定から見ると、東日本大震災かもしれない。
 そのいずれか、あるいは両方にせよ、トシの頭の中にはそうした呼び名は存在しない。ただ体験があるだけだ。そしてその体験は死んだ犬が教えてくれる。「いぬがからだを起こした、暗い中でトシにはそう見えた、/死んでいる場合ではない、といぬは、/すべてが縦に動いた、何度も、それから横に、斜めに/ぎしぎしとほら穴が音を立てていた、/揺れがおさまり、/音が止んだ、/いぬは寝ていた、/冷たく固くなっていた、/撫でて外へ出た、」
 トシは死にかけた母親を連れて避難所である学校に行く。だがなぜかそこには誰もいない。母親を看取り、やがて彼は、地震で妻と娘を亡くしたまっさんの工場で働くことになる。身体を病んだまっさんはトシに言う。「死んだらあかんで、つまらん、/なんでやとかいいなや、なんでもくそもない、生まれたら生きるんや、/生まれたおぼえはないやろが、」
 知らぬ間に生まれ、知らぬ間に死んでいく。他の動物の身体も、魂も、記憶も食べて食べて、大量に蓄積しながら、我々は生き続ける。一体何のために生きるのか。目的などない。ただこの世界が生命に満ちていて、人間も動物も、死者も生者も、それぞれの形で生きていて、それらの生命が繫がっているだけだ。
 そして死ぬと我々は月に帰っていく。まっさんの遺体を見て、そこにまっさんはいない、今まっさんは月の近くにいる、とトシは感じる。どうして月に帰るのか。かつて焼かれた男の骨を見たトシは知っている。その、赤や黒の斑点もある白く熱いかけらは月に似ている。ということは、我々の身体の中にはいつも月がある。いつも空から見守ってくれている大きな月は我々の故郷であり、やがて戻っていく場所なのだ。
 常に全てを剝ぎ取られたむき出しの生を生きるトシの物語である本作を読んで、僕はJ・M・クッツェーの『マイケル・K』を思い出した。知的障害のあるマイケルは内戦下の南アフリカで、死んだ母親の遺骨を彼女の故郷まで運び、穴に住んで身を隠しながら、誰とも関わらずに植物を育てる。そこには、社会の外側から、現代を批判する鋭い目がある。
 だがそれと似た設定である本作はもっと優しい。社会から疎外された多くの人々や動物がトシを助けてくれる。そこには生者も死者もいる。一人の男の人生に、遠大な時間と空間が交錯していく。個人を個人として見るのではなく、むしろ生命の流れの一つの結節点として捉える山下澄人の本作に、僕は日本現代文学の一つの先端を感じる。まずは読者はその、決して「。」で終わることのない言葉の流れを堪能してほしい。

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