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「物語を統べる力」小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』 江南亜美子

小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』

本体価 1700円
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 表現の形式(手段)をひとつに絞ることなく、多彩なかたちをとりながら、テーマの深化をめざすアーティスト──小林エリカという作家の特徴を端的にいえば、そうなるだろう。人によっては小林を、漫画家と認識しているかもしれない。先ごろシリーズ三冊目にして第一部が完結した『光の子ども』は、コマ割りがされ、絵とセリフなどの文で物語が進行するため、「コミック」に一応は分類できる。ただし一般的なコミックの枠組からはみ出るように、作中には写真や独立した文章も織り込まれる。
 あるいは、東京の国立新美術館での美術展「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」を訪れた人は、ドローイング、映像、写真、立体作品など、さまざまな技法を相関的に用いた彼女のインスタレーションに魅了されたにちがいない。なにもつけていないように見える指先から炎がぱっとあがった瞬間をとらえた、詩情に富む写真四十七点組で構成された作品「わたしのトーチ」は、六人のアーティストが参加した同展覧会のメインビジュアルのひとつにもなった。
 近年彼女がもうひとつ、意欲的に取り組んでいるのが小説である。本書『トリニティ、トリニティ、トリニティ』は、『マダム・キュリーと朝食を』、『彼女は鏡の中を覗きこむ』に続いて刊行された、文字だけの作品だ。こう整理するとまるで、テーマに応じてアウトプットを自在に使い分ける器用な作家であるかのようだが、じつのところ、テーマは終始一貫していて不変である。どのような形式をとろうとも何が書かれ=描かれているかといえば、放射性物質に代表される目に見えないものの、功罪両面の力であり、その力に魅入られ、翻弄された人々の姿である。
 本書は、ひとりの記憶の錯乱した老女の目覚めから始まる。〈ここは、どこだ。わたしは、だれだ。/わたしは、それを忘れてしまったようだった〉。次章では語り手がスイッチされ、「私」は、自宅でけがを負った母親が入院中の病室で、二〇二〇年の東京オリンピックの聖火リレーがテレビ中継されるのを見る。十三歳の娘と、自身の妹も一緒だ。その二人に母の看護を任せて出勤する途中、ガイガーカウンターの鳴り響く事態に遭遇する。
 街では東日本大震災以降、老人のあいだで奇妙な病が流行し始めた。放射性物質である黒い石を手に、奇怪な行動──一万円札を往来に撒いたり、福島の原子力発電所のそばで「ひとり聖火リレー」をするなど──に出るのだ。認知症にも似て、放射能にまつわるエピソードを譫妄的に喋り出すこともある。「私」はひそかに、母もそれに罹患したのではないかと不安を覚えている。病は「トリニティ」と名付けられた。
「私」は病をネットで調べるうち、同じ名で運営される、匿名の相手と文字だけで「サイバーセックス」を行うサイトにいきあたり、すでに「ケルベロス」とテキストを交わす仲になっている。ふたつに共通するのは、目に見えず実証もできない「物語」に、人が翻弄される点である。病の原因も感染源も判明しないまま、人々は集団催眠的にそれを怖れ、老人たちは自分が罹患者でないとの証明にやっきになる。サイバーセックスに関しては、もはやアイコンも使われない実体なき相手とのバーチャル(文字)の性行為が、「私」にとり、生きるよすがになっているのだ。
 母親が自身にとっての孫娘のスマートフォンを持って病院を抜け出すとの騒動を起こしたことで、物語は一気にスパークする。GPSで追跡すれば、向かった先は新国立競技場。まさに五輪の開会式が行われる場所だ。母親も病におかされ、なにかテロ的な行為を起こすのか? 焦る「私」に、娘は〈ママ。/ママ、大丈夫?/(中略)ママ、顔色悪いし……〉と心配する。
 これまで奇行におよんだ老人たちは、放射性物質への執着を見せると同時に、イタコのようにその一二〇年の歴史を語った。原子爆弾の開発に不可欠なウランが産出された「聖ヨアヒムの谷」の運命を、あるいはラジウムの美しさに魅せられたマリ・キュリーの生涯を。娘の心配は的中し、前例に倣うように、「私」はヒトラーが先導したベルリン五輪の際の聖火リレーを「幻視」し始める。「私」自身に、精神の混乱と幻視の力がもたらされるのである。
 本書において「トリニティ」は、奇病とサイトの名の他にも多くの意味が含意される。もとはキリスト教の三位一体を表わすが、ここでは祖母・母・娘へと続く女系三代の血縁関係を想起させる。ケルベロスとは誰であるかの謎が解かれれば、三代の「三」のつながりは縦方向だけでなく横方向にもひろがりを見せる。また、世界初のプルトニウム原子爆弾開発が行われたニューメキシコの実験場の別名もトリニティである。この名の由来は、ジョン・ダンという詩人の一節にあるらしいのだが、詩の句は娘のTシャツにプリントされている。このように「光」や「トリニティ」をひとつの符号として、父がラジウム・ペイントの時計を愛好していたことなどの、「私」の家族のささやかな記憶も去来し、出来事と出来事がつながり、からまりあっていく。
 あるかなきかのつながりが、やがてひとつの大きなうねり(=ストーリー)をなすこと。これは「小説」という文芸の成立の条件でもある。人の想像力は、ばらばらの出来事を統べる力を持っている。逆に言えば、物語の磁場から自由にはなれないのだ。認知能力の低下した母は、長らく得意としてきたレース編みの、その続きをもはや編むことができないが、それでもいびつな編み目を増殖するように、小説全体は拡張をつづける。冒頭の老女と、エピローグの老女の独白は、ほぼ同一であるようでいて、じつは世代が移行しているのではないかと、読者を疑わせる。〈ごく微かなものも集まれば、いつかこんなにもはっきりと目に見える、眩い光になる〉とはかつての父の言葉だが、物語という運動が起きればやがてあたらしい景色に行きつくのは、小説というリネアー性のある芸術に特権的なものだ。
 たくさんの表現方法のなかから、著者は、語る主体がある対象に没頭し同化していくその倒錯性を、言葉によって描きだした。チャレンジングに、テーマを掘りさげ続ける彼女のアウトプットを、どんなかたちであれ、注視していきたい。

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