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「来たるべき「物語」の原点」 太田靖久『サマートリップ 他二編』 川口好美

太田靖久『サマートリップ 他二編』

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 何年か前、ある立食パーティで著者である太田靖久と知り合った。テクストに触れるより先に生身の人間と出会ったのである。連絡先を交換したものの特段話すことはなかった。その後、手持無沙汰でなんとなく会場を見回すと彼がぽつんとひとりで立って料理を食べているのが目に入った。あまり見たことのない食べ方だな、と思った。猫背で頭を皿の中に沈めていた。顔を上げた瞬間の印象は猫より犬に近かった。この三篇を読むあいだも、彼がどこに、どんな姿勢、どんな表情で立っているか、それが気になった。
 三篇はそれぞれ独立した作品だが、いずれもマジョリティたちの「物語」についての「物語」であるという意味で、連作として読める。
「いない」。交際相手である香澄が元カレに電話で呼び出され、〈僕〉は彼女の部屋に取り残される。すると突然、香澄の幼馴染で元カレの後輩でもある男が部屋を訪ねて来る――というのが中心となる出来事なのだが、それは〈二十一歳になった僕は「物語」の中を生きていた〉という一文で語り出されている。だが問題は、彼が生きているのが純粋な〈「物語」の中〉ではなく、むしろ「物語」が不可能である世界、断片化・細分化されて連続性を喪失した、非‐「物語」としての「物語」の世界である、ということだ。たとえば〈僕〉は香澄にたいする自分の感情をつぎのように分析する。〈この彼女の足の指、すね、ふともも、ふくらはぎ、肩、首、まつげ、耳たぶ、唇、髪の毛、それらの一つ一つになら、「愛している」と嘘ではなく言えそうな気がする。でもそれらが集まって総体としての香澄になった時、僕はもう、彼女のことをどう思っているのか、自分でも分からなくなっている〉。細部への執着は認めても、〈総体としての香澄〉への愛情については言葉を濁すしかないのだ。
 そうした生き方は不安だが、容易に脱することは出来ない。〈通行人の誰もが〉足もとの水たまりに〈気がついていない顔でいながら〉それを〈きちんと跨ぐ〉のとちょうど同じように、「物語」の不可能に気がついていながら、素知らぬ顔で自然にその事実を跨ぎ越さなければならない。それこそが、この世界で正しく〈通行人〉=マジョリティの一人であるための条件であり、彼らのそうした振舞いこそ非‐「物語」としての「物語」を不断に成立させている当のものなのだ。〈僕〉だけでなく香澄も、幼馴染の男も、この循環の中に生きるマジョリティである。
 たった一度香澄が不安な心を露わにし、怒りを撒き散らす場面がある。車が猛スピードで〈僕〉と香澄の傍らを通過し、彼女は指にかすり傷を負う。その運転に〈道の上に何もない〉と思いたがる〈祈りみたいな〉思考を嗅ぎつけ、彼女は激怒するのだ。〈「畜生」と香澄が舌打ちした。「私が気分を整えるのに毎日どれだけ苦労しているか教えてやりたいよ。[……]そうやってどうにかしてバランスをとっているのに、心ない運転手が一人存在するだけで全部が台なしになりそうになる」彼女は何もない空を蹴って叫んだ〉。香澄は日々、細心の注意と努力を払ってマジョリティの「物語」に献身し、自分の位置をなんとか保っている。しかしその「物語」は、たった一人の行為によって滅茶苦茶にされてしまうほど、脆く果敢ないものなのだ。彼女はそれを自覚している。だからといって他に良い生き方があるとも思えない。無謀な運転も別の回路を開くものではない。結局のところそれも、マジョリティのやけっぱち、発作のようなものに過ぎない。わたしはこの「物語」の中で生きかつ死ぬほかはないのだ。分り切っている。なのにどうして、わざわざそれを鼻先に突き付けられなきゃならないのか。〈「割に合わない」〉。
 作者は香澄の怒りを突き放して相対化することも、はんたいに絶対化することもしない。ただ、怒りのすぐ隣に静かに立っている。怒りを受け止め、無言で嚙みしめているのだろう。おそらく香澄の怒りに匹敵する、いや、それ以上の怒りが作者自身にあるのだ。
 その後、突然あらわれた男との会話をつうじて〈僕〉は自らの生を練り直すきっかけを摑む。どんなに無意味な断片でも、それを粘り強く他の断片と結び続けることで思いもよらぬ星座を形づくるかもしれない、と。〈僕は考える。星々はあくまで目印で、むしろ総体は夜空の方にあるとする方が自然なのかもしれない〉。このとき〈僕〉は「物語」からほんの少しだけ自由である。
 多くは書けないが、「はじける」では、〈僕〉に生じたこの転回の意味がやや戯画的な筆致でより深く、複雑に追究される。さらに「サマートリップ」は、マジョリティの「物語」の主な伝達ルートである親子の関係を〈水虫〉という卑小な、あまりに卑小な病を軸に、つまりは身体のレベルで鮮やかに問い直し、新しい意味を付与している。またこの佳篇には、断片たちが形成する星座、それの〈総体〉としての〈夜空〉が喩えとしてではなく、これも身体的に登場人物に感覚される見事な描写がある。
 とはいえ、やはり作者自身は同じ場所にいる。怒りのすぐ隣に立ち続けている。だからなのだ、意匠を凝らし、小説として洗練されればされるほど、彼の作品が読者にどこか野暮ったいような、投げやりで暴力的な感じを与えるのは。不可能な「物語」という「物語」を生き続けなければならないマジョリティたちの苦渋を作家が総身で引き受け、引き裂かれていることの、それは証明なのだ。いつか太田は怒りの只中から素手で言葉を摑み出し、何事かを語るに違いない。
 それがどんな「物語」であるのかはまだわからない。いずれにせよこの三篇は来たるべき「物語」の原点である。

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