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「「両輪の片割れ」としての性」小佐野彈『車軸』 東直子

小佐野彈『車軸』

本体価 1300円
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 十一歳の真奈美が父の前で土下座をしたのち、失禁してしまうという衝撃的なシーンから始まるこの小説は、読んでいる間中、苦しかった。それもあまり味わったことのない苦しさなので、一体どこから来るのだろうと考えることが、この小説がこの世に生まれたことの一つの意味に繫がるような気がしてならない。
 登場人物たちは皆、特別な家庭環境にある。それぞれ差はあるようだが、シンプルに言えば、家がものすごく裕福なのである。日々の生活が高級志向であることが自身のアイデンティティーと直結していることは、身につけるもの、使用する店、乗っている車、観賞する舞台などが詳細に描かれることによって浮き彫りになる。もはや清々しいほどの金持ちの世界なのだなあ、と思いつつ、いつの間にか気持ちが巻き込まれている。金銭感覚は異なっても、人間として根本的に抱えている渇望が、リアルに迫ってくるのである。
 東北在住の十一歳の少女が、自ら乗り越えた屋上のフェンスから落ちる、という死を匂わせる場面でプロローグが終わる。その後、物語の主な舞台は、大学三年生となった真奈美の東京での生活へと移る。
 真奈美の東京での唯一の女友達のアイリーンは、同じ大学に通う女子大生だが、父親が台湾の名士で、県会議員を父に持つ真奈美よりもさらにゴージャスな生活をしている。そのアイリーンに紹介してもらったのが、潤である。ゲイであることを知らされていたが、真奈美は最初から潤に魅かれる。恋愛感情とは異なる、しかし確かに強い心の力が、潤のお気に入りのホストの聖也に、真奈美を近づけさせる。
 物語の途中でアイリーンが小説の舞台からフェイドアウトし、その後は真奈美と、ゲイの潤と、新宿の人気ホストの聖也との三人の奇妙な関係が縺れ合う。私は、テレビのドキュメンタリー番組などで垣間見たことがあるだけだったホストクラブの世界に、真奈美とともに初めて入店した気分で、彼女の聖也への貢ぎ物がだんだんエスカレートしていく姿を、はらはらしつつ見守ることになった。といっても、ホストにはまって自滅していく典型的なパターンとは様子が異なる。三人の、駆け引きと共にあるひりひりするような心理戦へと変化していく過程に引きつけられた。彼らの性は、自意識を破るための手段なのだ。
 作者の小佐野彈は、自分がゲイであることを公表している。『車軸』は、彼の書いた初めての小説だが、文学としての出発点は、短歌である。二〇一七年に、短歌連作「無垢な日本で」三十首で、第六十回「短歌研究新人賞」を受賞した。「短歌研究新人賞」は、かつて寺山修司が受賞した、歴史ある新人歌人の登竜門である。

 擁きあふときあなたから匂ひ立つ雌雄それぞれわたしのものだ
 セックスに似てゐるけれどセックスぢやないさ僕らのこんな行為は

 受賞作には、これらの歌のように、ゲイカップルの性愛を詠んだ歌がいくつもある。男と女とが行うようにはいかない、男性の身体を持つ者同士の性行為を率直に描き、強い印象を残した。一首の中に凝縮されているセックスへの違和感は、小説の中でも描かれ、作者にとっての大きなテーマであることを感じる。
 短歌は、一人称の文学として受け止められる部分が大きく、小佐野の短歌も、作中主体と小佐野自身が強く結びついていることとして捉えられている。比して、『車軸』は三人称小説である。主人公は真奈美という女性。登場人物の中では、ゲイの設定である潤に、最も自己投影しているのではないかと考えられるが、あくまでも物語として描いている。
《わたしは、本当に可愛くない。こんな可愛くないわたしを、潤さんは選んだ。聖也という車軸を挟んだ、両輪の片割れとして》
 この一文は、潤と聖也と真奈美の三人でのセックスを行う直前の、真奈美の内面の声である。「本当に可愛くない」という自意識が痛切。自由に使えるお金をたっぷりと仕送りしてもらい、恵まれた立場にある自分を自覚しつつ「貧農から一代で身を起こした曾祖父」という出自を引き合いに、「あたしはさ、本物じゃないもん。うち、もともと百姓だし」というセリフをこぼしてしまう、コンプレックスと地続きの自虐なのだ。
 聖也が「車軸」で、真奈美と潤が「両輪の片割れ」という認識。これらの言葉を比喩として組み入れた点に、人間関係に対する独自の考察力を見てとることができる。真奈美は「潤はよく「うちなんて、所詮戦後成金よ」と自嘲する。潤もまた、血のコンプレックスと共に生きてきたはずだ」と自分との共通点を見出しているのだ。こうした意識を内面に抱えているということに関しても、実業家の小佐野賢治を大伯父に持つ作者の実際の血筋が影響していることは否めないだろう。
 小佐野は、二十一世紀の日本の「グレート・ギャツビー」を描いたとも言える。ギャツビーたちと同じように、充分に愚かで、大胆で、クレイジーで、脆くて、切ない、悩める若者たち。生まれた瞬間から背負っていたような深い孤独感が痛々しく擦れ合い、ふいに裂ける。彼らは、生きようと思えば生きられたはずの、まっとうな昼間の世界からはみ出し、一時的な享楽を求めて深夜の散財を繰り返す。そうすることが唯一、自分を浄めてくれる方法だと信じるかのように。
 小佐野の第一歌集『メタリック』の冒頭の歌が、ふと胸をよぎる。

 家々を追はれ抱きあふ赤鬼と青鬼だつたわれらふたりは

 この歌の「ふたり」は、恋人や友人など、言葉では名付けようのない関係なのではないかと思う。浜田広介の童話『泣いた赤おに』の赤鬼と青鬼のように、潤と真奈美のように。

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