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「経験百人超えるんだっ」奥田亜希子『青春のジョーカー』 児玉雨子

奥田亜希子『青春のジョーカー』

本体価 1500円
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 共感には「わかる」と声に出して言えるものと言えないものがある、とわたしは思う。わたしがふだん携わっているリリックの世界では、この「わかる」と言えない共感が絶滅しかかっている気がする。なんでだろう。とりあえず、悪手なのだ。

 一方でそれは小説の切り札、ジョーカーだと思う。

 七夕の短冊に「セックスがしたいで〜す」とは書けない、けれど他者の願いは覗き見たいという、主人公・島田基哉の純朴な独りよがりを、本書の三人称がむざむざと暴いていく。わたしは「わかる」の吐き気を何度ももよおした。動物に関する語りには、愛犬家として怒りの吐き気をたびたびもよおしたが、願い事と同じくらい素直に語られていて、嚥下するほかなかった。

「世界が二層に分かれている」という基哉の世界観は、単なる分断ではない。イケてるグループ内の上下、シケてるグループ内の上下、愛玩動物内の上下と、果てしなく分断が続いている。

「学校」と「層」と来れば、すぐさま「スクールカースト」という語が想起される。おそらく本書の紹介文や読書感想文にもそれが散見されてしまうのだろう。っていうか、あった。ごめんなさい。本書に適切かどうか以前に、そもそもその語自体がわたしの腑に落ちない。というのも、身分の分断は確かに深いものの、変動させることは不可能ではないのだ。生来のもの、と諦めることは怠慢だ。教室内は資本主義的社会だ。かっこつけて「越境」と呼ぶにはおどろおどろしく、這い上がる好機と落ちぶれる恐怖が、境目で息をひそめている。

 たとえば、一年生になって友達百人作って登山したとする。最初はみんな同時にスタートだ。なのに、山頂でおにぎりを頬張る頃には、数人ずつグループができあがり、「友達」と「友達という名目の知り合い」に分かれ始める。しだいにグループ間に上下関係が生まれる。なかなか童謡の通りにはいかない。きっと基哉は、最後尾あたりの鈍間なグループに落ち着きかけていたのだろう。

 しかし、先頭を歩いていた者の足を掬い、最後尾まで転落させることはできる。いやいや、何もしなくても、ひとりでにずっこけてくれる場合もあるかもしれない。そうしていちばん景色がよく見える場所でおにぎりを齧れる存在になる切り札。十代半ばの基哉や友人たちには、それが性交経験の有無や、それに紐づいた性徴に集約される。兄の達己にはさらに経験人数、学歴、就職先など、さまざまな記号が付加されていく。人間の価値は、やったかやってないか、AランかFランか、多いか少ないか、大きいか小さいか。そんなさもしく雑駁なもの、なのだ。少なくとも基哉達にとっては。

 自分の話になってしまうが、高校時代、上位グループの女の子や先輩から、やたらとセックスの報告・相談をされていたことを思い出した。その話を広められるほどの友達がいなかったからだ。だからといって基哉のように成り上がることはなかったし、すべてどうでもいいよ、みたいな涼しい顔をして耳を傾けていたけれど、やはり他のクラスメイトに比べて、勝ったな、と意識の隅で笑っていた。今、四回打ち間違えをしてしまったくらいダサくて恥ずかしい。こういうことがあったから、この小説、共感します! 主人公の気持ち、わかります! と軽々しく言えない。

「人に勝ちたいって、強くなりたいって思うことが、そんなにいけないことかよっ」

 中学三年生の自分にとってはうんと年上の二葉に、こう怒鳴る基哉。嗚咽するほどダサすぎる。それに対し「誰かに勝つことが強さじゃないよ」と二葉。彼女もダサい。登場人物全員ダサダサ真拳の使い手である。基哉は兄の達己に対し軽蔑に近いまなざしを向けながらも、達己の心境も「わかる」のだ。言えないままであったその「わかる」がこの科白だ。特に「かよっ」の「っ」がとても痛々しい。

 そして二葉は二葉で、鞄が欲しかったから、と涼しい顔をしてアダルトビデオに出演した動機を話していたのに、終盤で優越感を認めてしまう。彼女にとってもセックスはジョーカーだった。欲しい鞄のためではない、演出された、虚構のセックス。基哉のジョーカーも二葉のそれも同じものだ。基哉のクラスメイトの啓太や、兄の達己や、達己の所属するサークルの面々も、あらゆる意味で虚構のセックスを切り札にしている、としているのはわたしの過大解釈だろうか(じゃあ真のセックスとは何か、というのは、規定文字数を超過するのでやめておく)。とにかく、他の誰かよりも大切に扱われたい。何かしらで優れていたい。そしてその何かしらがより多くあれば尚更いい。何をもって勝ちなのかはさまざまだけど、こんな当たり前でかわいそうな願望のために、登場人物たちは虚構のセックスを繰り出している。

 しかし「かわいそう」って、ほんとうにやっかいな感情だ。あわれみは上位存在が下位存在に差し向けるものだと思う。口に、文字にした瞬間、対象はかわいそうな何かに、主体はかわいそうではない何かに分断され、再定義される。「ことば」は事を切り分ける刃――「事刃」だ。基哉のことはよく「わかる」し、「かわいそう」に感じる。どのように本書の登場人物と読者であるわたしを切り分ければいいのか、わからない。

 そう、話を戻すと、「わかる」の発語数がこんにちの日本ポピュラー・ミュージックの評価といっても過言ではない。童謡だろうがポップスだろうが、外で口ずさめなければ価値がない。ひょっとしたら音楽だけでなく、あらゆるものが口で言える共感だけで価値づけられているかもしれない。そんな「わかる」に溢れた街の書店に、簡単に「わかる」とも「かわいそう」とも言えない本書が平積みされると思うと、なんだろう、にたにたが止まらない。

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