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「北町貫多の「セヴンティーン」」 西村賢太『蠕動で渉れ、汚泥の川を』 中森明夫

西村賢太『蠕動で渉れ、汚泥の川を』

本体価 1,600円
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 まず、タイトルが目を引く。『蠕動で渉れ、汚泥の川を』――西村賢太の小説でしかありえない表題だ。「結句」「慊い」「どうで」「嘯いて」「憚り」等の語を目にすると、ああ、西村賢太の小説を読んでいるんだなあ、としみじみ思う。私小説家・西村の分身たる「北町貫多」十七歳時の物語だ。一九八四年末から翌年春に至る。芥川賞受賞作『苦役列車』の前日譚。同時期を扱った短篇集に『二度はゆけぬ町の地図』がある。バルザックの〈人間喜劇〉シリーズには詳細な登場人物辞典&年表があるが、「北町貫多」年表の作成が待たれるところだ。

 中卒で家を出て、家賃滞納で安アパートを転々としながら、日払いの肉体労働で生きる北町貫多。十七歳にして上野御徒町の洋食屋でバイトを始める。白衣を着てコック帽をかぶり、皿洗いや厨房の下働きや自転車での出前の日々。相変わらず家賃滞納で正月早々に夜逃げし、洋食屋の三階の物置き部屋に転がり込む。初めて月払いの給料をもらい、将来設計の希望を抱くが、やはり、毎度の如く絶望的破局が待っていた――。

 物語としては、さほどのことは起こらない。主人公の行動半径も狭い。魅力的な英雄も美女も現れないし、謎の殺人事件も起こらない。にも拘らず、どうしてこれほど面白いのか? 血湧き肉躍る大冒険活劇のようにハラハラさせ、読む者の心を強く揺さぶるのか? それこそ私小説家・西村賢太の力量なのだ。

 私小説とは、老大家の身辺雑記のような退屈でつまらないもの――というクリシェがある。そんなことはない。私小説は物語のツールにすぎず、問題はそれをどう使いこなすかだ。本作を読んでいて私はジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』を思い出した。3Dメガネをかけて未知の世界を体験するように見ること。我々は北町貫多というアバター(分身)に乗って、強烈な体験をし、情動を揺さぶられるのだ。見かけは気弱な青年にすぎない貫多の心の内で何が起こっているのか? 厨房のやさしい先輩・木場の出身地を知ると(何んだい、こいつ青森のカッペかよ。笑わせやがる)とうそぶく。「生粋の江戸っ子」であることに異様なプライドを持つ彼は「地方の招かれざる、薄っ汚ないゴキブリ連中」と上京者を侮蔑して、あげく先の木場に「黙れ、遠国者!」と悪罵を浴びせる。あくまで心の中で。実際は「はい」と「至極従順、かつ穏当な返答」をするのみだ。この心の内外の落差が面白い。

 猪首男の店主・浜岡、非モテの小男・高木、若いバイトらや店の客まで、貫多の心の内の処刑によってなで斬りにされる。ことにひどいのは女性陣で、男からさし出されたフォークに突き刺したハンバーグをパクリと口にする若い女性客を(うぬっ、売女めが!)と罵り、バイトの痩せぎすの女は「やや点数を辛くするならブスのカテゴリーにも包括できそうな、やけに顔の長い一重瞼のひっつめ髪だったが、それでも一応、股間には女陰の備わっているであろうレッキとした【雌/メス】」と評され、きわめつきは店主の女房のブタババアである。叱責されて曰く「畜生、よくも……よくもこのぼくを辱めやがって! いつかきっと殴り殺してやるから。近々に癌に冒されて死ぬ運命にでもなったら、そのときは、おまえだけは絶対に道連れにしてやるからな!」。

 圧巻はバイトの女子大生の穿き残したキュロットスカートの股間を嗅いで、いかに「恐ろしいまでの悪臭」かと痛罵を食らわせる件だ。思えば、前日譚「貧窶の沼」で交際した女子高生・悠美江も股間の悪臭が指摘されていた。よほど貫多は股臭女と縁があるのか、はたまた彼の嗅覚が異常に鋭いのか? そうだった。西村賢太の私小説は、異常に鋭い嗅覚によって書かれている。ローンウルフを自称するこの孤独な狼は、飢えた獣の鋭敏な嗅覚で収集した緻密な記憶を、やがて小説によって鮮やかに再現するだろう(西村氏の愛嬌のある風貌は狼というより、ますむらひろしの漫画アタゴオル・シリーズに出てくるふてぶてしい猫に似ていると言うと、酒場で遭遇した岸本佐知子さんが「あ、ヒデヨシね」と教えてくれた)。

 小説を書く動物・西村賢太。その超高感度のアバターに導かれて、我々は彼の見た十七歳の世界を旅する。街と労働と欲望と虫ケラの如き人々が微細に浮かぶ。これが一九八五年か? トランジスターラジオから貫多の愛する稲垣潤一の曲が流れているけれど。〈青春の落伍者〉の生きた世界の生々しさに圧倒される。

「十七歳、まだ分別にやや欠ける」とはランボーの詩「小説」の一節だ。十七歳の小説といえば大江健三郎の「セヴンティーン」を想起する。自瀆と恥辱に塗れた十七歳が追いつめられ、やがて天皇崇拝に目覚める。中上健次の「十九歳の地図」の新聞配達青年は鬱屈の果てに爆破予告の脅迫電話をかけた。孤独な十代の主人公らは脱出の径路を政治や社会に求めた。だが、北町貫多は……。

「こみ上げてくる恥辱感に、暫時顔を伏せて瞑目する貫多は、このときふと、自分の心に強固な支えとなるものの不備を感じた。/こんな際に、その存在を思えば――その存在さえあれば、他のことはすべてがどうでもよい、と達観できるまでにのめり込み、すがりつける対象となる何かがあれば、どれだけ救われることであろう」。しかし、貫多は大江や中上の小説の主人公のように天皇崇拝や社会破壊の幻想を求めたりしない。ただ何も持たず、街に放り出され、とぼとぼ歩いてゆくだけだ。そう、彼を救うのは文学しかない。「何が、近代文学だよ。馬鹿野郎」と股臭の文学部女子大生に吐き捨てた貫多。「そんなもん、学校なんかで教わったって何んの意味もねえし、所詮てめえは何者にもなれやしないよ」。四半世紀後、街で学んだ文学の子供・貫多≒西村賢太は芥川賞を受賞して、この国で一等著名な私小説作家になるだろう。

 十七歳の北町貫多は実に清潔だ。どれほど悪辣で薄汚なく、いじましくとも、若さの自己美化やナルシシズムが一切ないのが清々しい。これは青春小説の主人公としては稀有なことだ。ここには裸の十七歳がいる。永く若い読者に読み継がれるべき「青春文学の傑作」が誕生した。

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