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「現代史のジレンマへの挑戦」亀山郁夫『ゴルバチョフに会いに行く』 白井聡

亀山郁夫『ゴルバチョフに会いに行く』

本体価 1,800円
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 プーチン、ロシア大統領の名言に「ソ連が恋しくない者には心がない、ソ連に戻りたい者には脳がない」というものがある。ロシア人でなくとも、ソ連とロシアについて深い関心を抱いた者ならば、この言葉の含蓄は理解可能であろう。とりわけ、亀山郁夫氏のように、ブレジネフ期の相対的に安定した時代のソ連邦を訪れる経験をした人々にとっては。

 当時の印象をかつて私は、亀山氏から直接聞いたことがある。それは実に驚くべき、ある意味では素晴らしき世界であった、と。生活に関する不安はなく、労働はきつくもなく、休暇は長い。治安も万全である。そんな社会で人々は皆、心優しく、常ににこやかであり、多幸感に満ちていた。生活必需品の質の悪さと不足は確かにあったが、我慢できない悲惨なレベルでは決してなかった、という。「鉄のカーテン」の向こう側は、全体主義体制によって支配された、ひたすら暗く鬱陶しい世界である、という日本を含む西側世界で流通していたイメージとは異なる「現実のソ連」像を、亀山氏は教えてくれた。

 だからこそ、亀山氏のゴルバチョフの登場に対する期待は強烈なものとならざるを得なかった。ゴルバチョフの主導する改革によって、ソ連はもう一度あの輝きを取り戻せるのではないか、言うなれば、「心」も「脳」も兼ね備えたソ連が実現するのではないか、と。周知のように、この期待は現実によって裏切られることになる。

 インタビューを終えた亀山氏は、一九九一年、ゴルバチョフの政治生命を終わらせることになる保守派によるクーデター事件の際のゴルバチョフの行動についての究明に向かう。この件は、いまだに謎に包まれている。あの時、果たして、ゴルバチョフは本当はどうしたかったのか。問題の核心を追い求めれば、彼にはソ連邦を維持する本物の意志があったのか否かという問いにたどり着く。言い換えれば、最高指導者その人が、既にソ連の存続を信じきれなくなっていたのではないか、という疑惑である。

 ロシアに関心を持つ者は、この問いにこだわらざるを得ない。今日のウクライナ紛争を含め、ソ連崩壊後のロシアはほとんど間断なく旧ソ連構成国と戦争を行なってきたからである。それらは、ソ連という枠組みが打ち捨てられたことによるとも言えるが、逆に、バルト三国の場合のように、ソ連を維持しようとすれば別の形で大規模な流血がもたらされたであろう。亀山氏がゴルバチョフとの対話を通じて、あらためて照らし出しているのは、この容易には解けない現代史のジレンマである。

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