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「山から眺める新しい景色」 江國香織・松家仁之・湯川豊『新しい須賀敦子』 星野博美

江國香織・松家仁之・湯川豊『新しい須賀敦子』

本体価 1,600円
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 須賀敦子――その響きは、いつでも私を緊張させる。

 カトリック左派の運動に共鳴し、英語・フランス語・イタリア語に堪能で、大学で教鞭をとりながら数々の翻訳を刊行し、揺るぎない文体で名エッセイを残して、彗星のように去った、いまなお多くの読者から愛されてやまない人。

 しかし欧州暮らしが長かった人にありがちな、自分を欧州人と同一視して日本文化を見下すような傲慢さは微塵もなく、逆に欧州で叩きこまれた東洋人としての卑屈さもない。世の中に小説家や随筆家はたくさんいるけれど、「須賀敦子」は一人しかいない。

 私は須賀の勤勉な読者ではなかったことを最初に白状しておこう。

 彼女の文章はけっして難解ではない。俗な言い方をすれば、一見とっつきやすく、おしゃれですらある。しかしそこには何か底知れない深さが潜んでいて、上澄みだけをすくうのか、底を覗きこむ勇気を持つかによって、見え方がまるで異なってくる。読者の力量を露呈させる、怖い文章なのである。気軽に裾野を散策することさえ躊躇してしまうような高い山、と私には映っていた。

 そんななか、本書を手にとった。作家としてデビューする前から、須賀の翻訳作品に影響を受けたという小説家の江國香織。編集者時代に須賀を担当し、のちに『須賀敦子を読む』を著した文芸評論家の湯川豊。やはり編集者時代に須賀と親交を持ち、のちに作家となった松家仁之。読書家として知られる三人が須賀について語り尽くしたのが本書である。

 贅沢にもこの三人をガイドとして雇い、私は恐る恐る山を登り始めた。ここで立ち止まってみるとこんな風景が見えるよ。足元にこんな花が咲いている。疲れたら休んでもいいんだ。彼らに導かれながら、少しずつ山を愛し始める。そして、自分がずいぶん七面倒臭い回り道をしてきたことに気づかされた。

 確かに高い山である。しかし山頂に到達した者しか山を愛してはいけない理由はない。どこから登ってもいい。自分の身の丈で感じる山を、愛せばいいのだ。

「ずいぶんあたりまえのことを言うのに難かしい言い方をする人がいるのだなァ、これはやっぱりデカダンスではないかと言う気がしました。古典の簡潔さを求めること、簡潔な文章を書くことの勇気を持ちつづけたいと思いました。」

 須賀が友人に宛てて綴った手紙の文章が、乾いた体に染みわたっていく。

 須賀敦子はもういない。しかし私たちには彼女の文章が残された。その喜びを嚙みしめながら、また山に登り始めたいと思った。

「すばるから生まれた本」書評

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