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「肯定の力」岩城けい『Masato』 都甲幸治

岩城けい『Masato』

本体価 1,200円
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 日本語の外に出るとはどういうことか。読者は本書を読みながら、主人公の真人と共に英語の世界をさまようことになる。そして自分自身も、Masatoという、音も文字も異なる存在に翻訳されてしまう。それは恐怖の体験であり、この上ない解放の物語でもある。

 登場するのは典型的な日本の家族だ。父親は自動車会社の社員で、初の海外勤務を命じられて、オーストラリアにやってきた。栄養士の妻は仕事を辞めて家族に同行している。進学に備えて中学生のお姉ちゃんは日本人学校に行く。けれども小学生である弟の真人は、「コクサイジン」になれるという理由で現地校に入れられる。この時点では両親とも、そのことの本当の意味がわかっていない。だからこそ、息子が完全な外国人に変容していく過程に驚愕してしまう。

 真人がそうなったのは、異なる環境で生き延びるためだ。言葉がわからず、ときにいじめられ、無視される。それでも周囲の口真似をし、授業に食らいつくうちに、単なる英語と思えていた音が、いつしか人の言葉に聞こえてくる。クールな台湾系のケルヴィンが、実は友だちの前で親と中国語で話すのを恥じていたり、いじめっ子のエイダンが、両親の離婚に苦しんでいることに気づく。そのとき真人にとって、彼らはもはや外国人ではない。人間として、同じ苦しみを抱えた大切な仲間だ。サッカーや演劇を通じて、「ぼくは、ここにいてもいいんだ」と思えたとき、もはやオーストラリアは真人にとって外国ではない。

 だが英語を拒否し、オーストラリアへの不満を口にするだけの母親にとって、息子の友人たちはついに、ただの外国人でしかない。そして真人に英語でまくし立てられると恐くなり、日本語でしゃべりなさいと叱りつけてしまう。日々の息子の努力を、母親は否定的にしか受け取れないのだ。その言葉のせいで、今度は真人が自分を否定する。

 救いはキャンベル先生の言葉だろう。「ぼくはだめだなんて二度と口にしないこと。だめな人間なんて、私の知る限り、この世にひとりもいない」。自分を否定することは美徳でもなんでもない。こうして母親の押しつける日本を拒絶したとき、十三歳の真人は自分の力で歩き始める。それは彼がMasatoに変貌した瞬間だ。

 英語圏で生きる多様な人々を、ここまで繊細に、共感を持って描ける岩城の存在は、日本語文学にとってこの上なく貴重である。外国で暮らすことを巡る嘘のない記述に僕は、爽快感すら覚えた。

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