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「犬たちに読ませたい」 四方田犬彦『犬たちの肖像』 水原紫苑

四方田犬彦『犬たちの肖像』

本体価 1,800円
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 奇しくもその名に「犬」の字を持つ、世にまれな多力の著者による、文字通り古今東西の犬たちの宇宙である。

『オデュッセイア』の老犬アルゴスに始まり、『マハーバーラタ』のダールマ神の化身の犬に至る美しい構成によって、最も低い位置にいながら、最も高い天まで人間を導く犬という生きものの不思議が、愛と畏敬をもって開示される。

 しかしながら、これは決して愛犬家のためだけの甘やかな書物ではない。むしろ嫌犬家そして犬たち自身に読ませたい、人間と犬との関係性を容赦なく抉り出した書物と言えよう。

 各章の犬たちの肖像は、歌舞伎さながらの双面になっている。

『シートン動物記』の明るく生き生きと個性を伸ばす犬たちの裏側には、ジャック・ロンドンの描く暴力と憎悪にしか生きる意味を見出せない犬たちがいる。

 西洋人に襲いかかる、青年泉鏡花の描いた『大和心』の飛龍と、フランスの作家ロマン・ギャリの『白い犬』が提示する、黒人差別の形象としての犬。その間に小林多喜二の『人を殺す犬』がいる。人間にとって著者の言う「他者の最初の隠喩」である犬の凶々しい体感が描かれる。

 フェレーリの映画『ひきしお』のカトリーヌ・ドヌーヴは四つん這いになって犬に変身することで人間社会から解放されるが、金石範の小説『過去からの行進』の主人公は、犬への変身によって、権力の喉元に喰らいつく、より人間的な存在に生まれ変わる。究極の受動性と能動性の双方を可能にする「犬」とは、権力を相対化する存在である。

 ならば、犬が人間となったらどうか。ステープルドンの『シリウス』では、人間以上の高い知性を与えられた犬が、低劣な人間たちの世界に居場所を見出せずに死に、ブルガーコフの『犬の心臓』では、犬と人間のハイブリッド種に仕立て上げられた犬人間が、強権のもとで犬以下の自己解体を強いられる。

 人間たらんとした二十世紀の不幸な犬たちのあとで、日本の犬文学の最高峰、『八犬伝』を振り返ると興味深い。著者はここで、作者滝沢馬琴が種本とした『後漢書』の槃瓠伝説を取り上げている。槃瓠伝説においては女が犬と交わることで「蛮族」が中央権力に服従するという神話が語られるが、姫が犬の気に感じて玉を生む『八犬伝』には神話の終焉の後、著者の言う近代、「小説の時代」の憂いがある。今なおその憂愁の名残りを、犬と私たちは生きているのだ。

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