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「現実と引き替えに小説を得る」奥田亜希子『透明人間は204号室の夢を見る』 栗原裕一郎

奥田亜希子『透明人間は204号室の夢を見る』

本体価 1,300円
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 佐原実緒は六年前、高校生のときに文学新人賞を受賞したが、四年前に書けなくなり、ライターの真似事とアルバイトをして暮らしている――。

 二〇一三年にすばる文学賞を受賞した奥田亜希子が書き下ろし新作に選んだのは、書けない新人小説家という、自虐的とも挑発的とも取れるテーマだ。

 日々SNSで自作に対する言及を探し、まだ一冊だけ自著を置いている書店に行ってはその存在を確認する。「目に見えない本」誰にも手に取られることのない自分の本を実緒はそう呼ぶ。世間から忘れられた自分は「透明人間」なのだとも。

 ある日、大学生風の男が自分の本を棚から抜き、戻すのを目撃する。「このまま彼と別れてはいけない」そう思った実緒は、尾行してマンションを突き止める。タイトルの「204号室」とは、その彼、千田春臣の住む部屋の番号だ。

 春臣を知った後、実緒はふいに掌編を書き上げる。それを境に、書けなかった以前が嘘のように次々と掌編が仕上がり、実緒はそれらを春臣の部屋のポストに投函する。透明人間となって春臣の部屋へ忍び込み彼と性交する妄想に耽りながら、恋愛感情はない、実緒はそう思っている。魅力に乏しいコミュ障の自分に恋愛する資格などないと決め込んでいるのだ。一方、とあるきっかけで春臣の彼女・津埜いづみに懐かれた実緒は、彼らと現実の関係を結び、それをかけがえのないものと思うようになっていく。

 実緒にとって春臣の存在とは何か。やはり読者だろう。彼女のなかにある読者像、それを偶然から投影されてしまった傀儡の読者だ。しかし実緒自身そのことに無自覚であり、春臣にはますますそんな自覚はない。錯誤に基づく擬似的な作者と読者の関係はむろん破綻し、錯誤の上に築かれたリアルな関係も崩壊する。

 だが、書かれた小説は現実のものとして残るし、崩壊した関係もまた小説として再生することが予言される。

 本当は友達が欲しかったのだけれど叶わず、文章を書くしかなかったのだと漏らす実緒に、それは救いじゃないのかといづみが応えるシーンがある。

 いわば現実と小説のトレードオフということだが、ラストで繰り広げられるのは、その不可避な選択の反復である。現実の破局と引き替えに、新しい小説とさらに別の小説の萌芽を得る結末は、より大きな救いであると同時に巨大な喪失でもある。にもかかわらず実緒の描写からは救いしか読み取れない。業がきわめて深い。だがそれが、作者の小説に対する思想なのである。

「すばるから生まれた本」書評

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