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「死を受け入れ、生を肯定して、楽園を目指す」よしもとばなな『鳥たち』 トミヤマユキコ

よしもとばなな『鳥たち』

本体価 1,300円
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 生きているということは生き残っているということだ。けれど、わたしは凡庸な人間だから、日々の暮らしの中で、そんなことをいちいち意識したりしない。朝、目が覚めるたび命があることを感謝したりしないし、そういう鈍感さを恥ずかしいとも思わず生きている。

 その点、本作に登場する「まこ」と「嵯峨」は、まったくもって非凡だ。ふたりは、「生き残りとしての自分」というものを強く意識している。二十歳そこそこの若者とは思えないほど切実に、命について考え続けている。

 なぜそこまで命について考えられるのかというと、ふたりがともに母親を自殺で亡くした子ども同士だからだ。母親たちを自殺へと導いたのは「高松」という神秘主義者の男である。世界中を旅することで獲得したという、彼独自の生き方や考え方にのめりこんだ嵯峨の母親は、まこの母親を誘い、それぞれの子どもを連れてアリゾナのセドナで彼との共同生活をはじめた。彼らの生活は、いかがわしい自己啓発系というよりは、ナチュラルでシンプルなものであり、貧しくても充実していた。しかしやがて高松が胃がんで亡くなると、その後を追って彼の恋人であった嵯峨の母親が自殺。まこの母親はひとりでまこと嵯峨を育てようとしたが、踏ん張りきれず鬱になり、やはり自殺。このときまこたちはようやく十代にさしかかろうかというところ。しかも、まこの父親は彼女が幼い頃に交通事故で亡くなっていたし、嵯峨は「旅先の一夜の恋愛」でできた子なので、父親の所在は知れなかった。高松との生活は、言ってみれば疑似家族的であり、まこや嵯峨にとって彼は精神的な父親だったが、その彼と実母とを一気に喪ってしまったふたりは、世界にたった二人きりになったようなものだった。つまり本作は、親の死を乗り越えようとする子どもたちの物語であり、特殊な生育歴を持つ子どもが、自分たちなりの家族を形成しようとする物語でもある。そしてそれは言うまでもなく、『キッチン』の時からずっと著者がこだわり、大切にし続けているテーマだ。

 日本に帰国したまこは進学して女子大生になり、嵯峨はパン職人になった。それぞれに人生を模索してはいるが、ふたりはセドナにいた頃と同様、いや、あの頃以上に深く関わり続けている。育ってきた環境や母親の亡くなり方が特殊すぎて、ふたりのことはふたりにしか分からないのだから、離れられないのは当然だ。母親たちの命を救えなかったこと、自分たちが生き残っているということをふたりは強烈に意識せざるを得ないのだ。

「悲しいけどお互いにきっとできれば忘れたいようなことを土台にいっしょにいる」——作中、嵯峨との関係をまこはこんな風に説明する。そして、そんな話をしているまこと友人のすこし後ろを、嵯峨はまるでストーカーのようについてくる……まこと嵯峨の関わり方は、なんだか妙だ。誰かと一緒にいるまこには近づけないなんて、ちょっとおかしい。でもそれがふたりのやり方なのである。ふたりは、第三者を交えて他愛もない世間話をするような、そんな世界からは、遠く隔たってしまっているのだ。そうした事情を知らない者からすれば、彼らは、ストーカー男と、なぜかそれを許容している変な女に見えるだろう。

 第三者を遠ざけてしまうほど固く結ばれた彼らの絆は、愛と呼ぶにはあまりにも悲しく、呪縛と呼ぶにはあまりにも純粋だ。こんな形で男と女が結びつくことが究極の愛にも見えるけれども、若者らしい無邪気な人間関係を構築できないことが可哀想にも思える。彼らの繋がり方は、萩尾望都の名作漫画『半神』を思い起こさせる。腰の部分が繋がった結合双生児であるユージーとユーシーは、ふたりきりの世界に閉じ込められ、ひとりじゃないのに孤独そのものだった。分離手術に成功したあとも、完全に別の人間として生きていくことなどできないくらい、ふたりきりの世界は強固なものとして描かれている。肉体は離れても、魂がひっついて離れないあの双子が、まこと嵯峨に重なって見える。ほかの誰にもわたしたちのことは分からない。わたしたちの孤独が分かるのはわたしたちだけ。そんな声が聞こえてくるようだ。

『半神』ではユージーだけが生き残る結末が待っているが、本作では、まこも嵯峨も死を見つめながらこの世界で生きていこうとしている。嵯峨は、まこと生きていく人生が「行き止まりの道、息がつまる場所」ではないと言う。「僕たちは楽園に行く。文字通りの楽園に。それが僕らの人生だ」と語る嵯峨は、死を受け入れ、生を肯定して、楽園を目指している。かつてはまこが嵯峨の親代わりだったというのが嘘のような、嵯峨の頼もしさが胸に迫る。

 本作は、生きていくということが、ただ生き延びるということである以上に、「誰かと出会うこと」なのだということを、繰り返し、丹念に描いている。ふたりが出会うのは、まこの所属するゼミの先生だったり、嵯峨に片想いをする女性だったりといろいろだが、いずれもいつかまこと嵯峨がもうすこし気楽にこの世界と交渉できることを信じて気長に待っていてくれるような人ばかり。まこに意地悪なことを言うゼミの先輩でさえ、彼女の人生を全否定することまではしない。ふたりはまだ気づいていないようだが、この世界は残酷であると当時に、案外優しいのかも知れない。そして、まこが熱望している嵯峨との赤ちゃんも、本作における大切な登場人物のひとりにカウントしておかねばなるまい。まだ見ぬこの赤ちゃんとの出会いこそが、死に縁どられたふたりの孤独な人生を大きく反転させる可能性を秘めているのだから。嵯峨は言う。「赤ん坊は常に僕たちを、今に今に連れ戻してくれるだろう」——今に今に連れ戻される彼らは、一体どんな家族になり、どんな楽園へとたどりつくのだろうか。

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