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「光のように、ラジウムのように」 小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』 市川真人

小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』

本体価 1,300円
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 文学賞の選評を眺めていると、ときに驚くほど不評な作品に出会う。いささか不幸な気もするが、黙殺されるよりはもちろん、ときに高評価であるよりも、隠しきれぬ温度で評者の苛立ちが伝わるほうが、作品が気にかかることもある。小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』も、そういう作品のひとつだ。

 三島由紀夫賞の選評で、五人の評者は口々に、同作品に手厳しい。辻原登は「小説途上の小説」と一行で斥け、髙村薫は「構成する技術と語りの技術が追いついていな」くて「小説の表現になっていない」と切り捨てる。柔らかな文体と視線が持ち味の川上弘美は「細部に小説を読む愉しみを」認めつつ猫を主人公に書くことの困難が意識されていたかと露骨に反語的だし、町田康も「全体にまとまり」がないうえイメージ頼りで魅力がないと手厳しい(次に期待と添えてはあるが)。コンセプトが「腑に落ち」たと唯一好意的な平野啓一郎も「論理的な関連性を欠いた」様子が「トンデモ科学を聞かされている」ようだと突き放す。その落選後に異例の候補となった芥川賞でも、髙樹のぶ子の会見によれば「ジャンプ力だけ」ではなく「もう少しきちんと筋道を立てた小説の作り方」をと早々に除外されたというのだから、四面どころか五人+九人で十四面楚歌の感じなのだ。ほら、ここまで気持ちを逆撫でするものは何かと、いっそ気になってきたでしょう?……というわけで同作を読み返してみた。

 作品は、人間が放棄し猫の楽園となった町を離れて遠くの街で暮らす猫の「私」が語り手の物語と、小学五年生の「わたし」が語り手の物語、主に二つのパートから成っている。別れた母たちの猫生を想う「私」の物語と、死んだ母を想う「わたし」の物語は、どこか似ながら別々のものとして進み、「私」は光る猫「タマゴ」に出会って彼の与える食事を契機に、遠い過去や遠い場所へと跳べるようになる。一方「わたし」は、「光の声」から逃れて耳を悪くした祖母の家を訪れ、昔話や彼女の歌う「遠き山に日は落ちて」、それに母親がiPodに遺した声を聞く。

「私」が出会う出来事も、「わたし」の祖母や母の物語も、様々な時代や様々な場所の無数の断片に分かたれていて、さらにその合間あいまにキュリー夫人やエジソンやルーズベルトや、X線実験で死んだ動物たちや原爆実験で沈んだ船、料理のメモや電気処刑の逸話が挟まれるのだから、「まとまり」「筋道」「構成」あるいは論理性を探して読む限り、その読書は苦しいに決まっている。

 だけれど作品が始まって少しして「タマゴ」が漏らすわずか二行の独白を読解の中心に据えたなら、まとまりや筋道や構成や論理性の欠如は一気呵成に反転し、文字通り、カオスに見えた作品を照らす光が落ちる。「光が[…]全ての事柄を留めているとしたらどうだろう?/光を辿り、光が留めた光景を、この目で見ることができたとしたらどうだろう?」

 それが示唆するのはこんなことだ。

 光るラジウム二二六を発見したキュリー夫人が触れた物には、彼女の手から移ったラジウムが指紋の形で付着する。その半減期は一六〇〇年以上だから、指紋の形をしたラジウム=光は以来百年以上にわたり世界に接し続けて今この瞬間も残っている。とすればその光には(もし光に記憶が可能なら)百年以上分の「世界」が刻み込まれていることになる。

 ラジウムの光がそうなら世のあらゆる光も同様かもしれず、つまり世界は無数の光によって、ひとつひとつが飛び回り衝突した無数の断片として記録され続けている。そんな光はタイムマシンと「どこでもドア」の合 金、それを覗き込めれば私たちは、まとまりや筋道や構成や論理とは無縁に(乱舞する光には必要ないし存在しない)、時間と空間を超えた「世界(の断片)」をジャンプしながら見ることになる――そんな体験を擬似的に味わわせてくれるのが『マダム・キュリーと朝食を』なのだ。

 もちろん一冊の書物であり一人の著者の手による以上、反射や散乱にも限界はある。母猫を失った猫と母親を失った子供、放射性物質や電気の誕生、結び合うふたつの台所……私たちがまとまりや筋道を見いだしたくなる一瞬の収束は散在するが、目に飛び込んだ光がそのまま吸い込まれ消えるのではなく反射し飛び出すように、まとまりかけた物語はすぐまた別の場所へと散って、私たちは物語を捉えきれない。

 よく似た経験には、彼女の別の作品、『光の子ども』(リトルモア)でも出会うはずだ。とりあえずコミックと呼ばれるだろう同作は、絵と写真とテキストが混在し、私たちのよく知るコミックとはずいぶん違い、これまたうまく話を追うのが難しい。けれども『マダム・キュリーと…』の「私」とよく似た猫がいて、「光」と呼ばれる少年と妹「真理=マリ」、それからマダム・キュリーの娘がいて、光があちこちに散らばる町はじめ時空を超えて描かれるコラージュめいた彼らの物語もまた、私たちの前で輪郭を結ぶと思えば崩れ、崩れたと思えばまた浮かぶ。

 そうした二つの作品を読むことは、それ自体として〝光を辿る〟こと、〝光が留めた光景をこの目で見る〟体験を思わせて、何度も繰り返し読むうち、気づけば癖になる楽しさがある。光の運動を目で追い反射で像を結ぶように、散乱する断片を自由に結んで意味づける経験が次第に楽しくなってくるから。書かれない細部をいくらでも想像できるから。

 それは、私たちがよく知っている〝小説を読むこと〟〝コミックを読むこと〟とはいささか違う体験だし、だからこそ私たち読み手は戸惑い、嫌いもするだろう。だが、そこでは〝光を捉える小説〟や〝光の束としてのコミック〟の可能性が求められてもいるのであって、思えばマダム・キュリーもそんなふうに新しい元素の青い光を追い求めたのだ。

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