すばる最新号  >  書評一覧  >  結婚という魔界巡り 橋本治『結婚』 香山リカ

「結婚という魔界巡り」 橋本治『結婚』 香山リカ

橋本治『結婚』

本体価 1,500円
▼BOOKNAVIへ

 これは、いまを生きる女性の「結婚に向かう旅」を描いた、ロールプレイングゲームなら「ドラクエ」ならぬ「結婚クエスト」とも言える傑作小説だ。

「結婚クエスト」とは言ってみたものの、いわゆる怪物退治ゲームとはかなり違う。ゲームなら最初は未熟な主人公(たいていは少年)が、ザコモンスターを倒したり出会った人から情報を得たりしながら経験値を上げて成長して行き、いろいろな武器を手に入れ魔法を覚え、最終的にはボスキャラを仕留めてほうびの財宝、地位、そして美しい花嫁を獲得する。しかし、この「結婚クエスト」の場合、どうすれば経験値が上がるかも示されていなければ、逆に経験値が上がるほど最終ゴールである結婚から遠ざかる場合もある。そもそも、最終ゴールが結婚かどうかも途中から定かでなくなってくる。少年の成長譚のようにシンプルではないのが厄介なのだ。まるで魔界巡り。

 この物語の主人公である旅行会社社員・倫子も、二十八歳を目前にした頃から「結婚クエスト」に足を踏み出す。とはいえ、いま述べたようにゲームのルールがまったく示されていない。道行く若い子連れのカップルを見るとドキッとして、彼らに直接声をかけて、「どうして結婚出来たんですか?」と聞いてみたくなる衝動にかられる、というのも当然だ。

「人はなぜ結婚を?」と考えすぎてその問いが哲学の域にまで昇華されていくような倫子に、私の心も痛んだ。今では「倫子ふたり分」の年齢の私であるが、かつて同じような煩悶の時期があり、そのときは毎朝、病院に通う道すがら、団地のベランダで洗濯物を干す若い主婦たちの姿があまりにキラキラして見え、「あっちは天国でこっちは地獄なんだ。あの人たちは天上から降りて来た蜘蛛の糸につかまってあっちに行けて、私は功徳が足りないからいつまでも地獄を這い回らなければならないんだ」などと真剣に考えていた。ある日、〝あっち側〟にいる友人にその話を打ち明けたら、「あんた、なに言ってるの? 結婚なんて気づいたら自然にしていた、というものだよ。考えすぎるからできないんだよ」と笑われ、ますます謎は深まるばかりであった。

 そう、すでに結婚したり子どもを持ったりしている人たちからは、「生活の心配がないからそんな悠長な悩み方をしているんだ」「『結婚って何?』なんて少女じゃあるまいし」とバカにされるかもしれないが、倫子のように、自活していけるだけの仕事もあり、適度な距離に実家があって家族もおり、気のきいた女友だちもいれば、それなりに彼氏もいたしこれからもその気になればまた探せそう、という女性たちにとっては、「できちゃった結婚」以外の結婚など、完全に神秘の世界のできごとでしかない。とはいえ、倫子には、アメリカのライス元国務長官ばりに「結婚など論外」といったオーラを出しまくって仕事や社会貢献に打ち込むほどの覚悟もない。また、親との仲もなまじ良好なだけに、「まだ結婚しないのか」というプレッシャーを無視するわけにもいかないのだ。

 何とも煮え切らない倫子のような女性は、「結局、自由でいたいから結婚しないんでしょ」と言われがちだが、倫子は自分が自由ですらないと感じている。父親の還暦祝いで両親と兄一家とともに温泉旅行に出かける前の日、電話をかけてきて言うだけのことを言って切る母親に、倫子は「自由でいいな」と思い、自分が「自由」を実現していないのを実感する。私は、既婚の女性たちが「自分は被害者」と信じて疑わずに夫への不満をぶちまける一方、シングルの女性は「結婚していない自分が悪いのですが」とどこか肩身が狭そうに職場や実家での悩みをおずおずと打ち明ける、という診察室での経験を思い出した。「結婚はしましたよ」というのが免罪符となり、言いたいことを言ったり誰かを一方的に攻撃したりする「自由」を女性たちは手に入れるようなのだ。そして、倫子はそういう「自由」を手に入れてもっとヌケヌケと暮らしてみたいとも、いや、相手の都合や立場を慮ることさえなく、「夫がね」「ウチの娘ったら」と切り出すような「自由」などほしくもないとも思うんだろうな、とまたまたその逡巡が手に取るようにわかる私であった。

 ただ、私の世代と倫子世代では大きな違いもある。私がいまの年齢の半分、つまり倫子と同じくらいだった時代には、世間の風はむしろ「結婚しないという自由」を後押しする方向に吹いていた。しかしその風速が強すぎたのか、その後、「負け犬」だとか少子化だとかが社会問題となり、倫子たちは「やっぱり結婚はすべき」というムードに囲まれているようだ。「ガツガツするのははしたない」というかつての〝美徳〟は消え失せ、「婚活」という名のもと、相手探しを公言してのがんばりもおおいに奨励されている。そうなると根が努力好きの倫子としては、その活動にも参加しないわけにはいかなくなるのである。

 それにしても、冷静になって考えれば、結婚なんてしてもしなくても基本的には「個人の自由」以外のなにものでもないはずだし、できたから偉い、勝ちということでもなければ、してないから落伍者、負けというわけでもない。それなのに何だかそこには、それをした人だけが与えられるさまざまなポイント、特典、人生の鍵があるように見えるし、世間もまたそう見せている。いつの時代もそこで翻弄されるしかない「女という不自由」が、この作品には鋭く、しかしなぐさめ、ねぎらいのトーンを忘れずに描かれているのである。

 さて、倫子は「結婚クエスト」でいったいどこにたどり着くのか。これがまた、意外なようであり納得できるようでもある地点なのだ。「なるほどね、そう来たわけね」と私はニヤニヤしながら本書を閉じた。一寸先は闇。あ、違うか、道は開ける。……それも違う気もするが、「倫子の選択」が今後、どんな展開を迎えるのか、本書を読んだ後では私たちの親友にも感じられる作者の橋本治氏にはぜひ続編を書いてほしい。そして、それが朝の連続テレビ小説にもなりますように、と祈る気の早い私だ。

「すばるから生まれた本」書評

書評一覧へ