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「壊滅に直面する全員無責任=全員責任」 奥泉光『東京自叙伝』 髙橋敏夫

奥泉光『東京自叙伝』

本体価 1,800円
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 奇想天外かつシリアスな、三・一一以後文学が誕生した。謎の語り手「東京の地霊」に導かれ、わたしたちは東京の過去から現在へ、そして放射能まみれの壊滅のデストピアへと高速で移動する。

 奥泉光は、息の合った相棒いとうせいこうとの新刊対談「小説を演奏する」(「青春と読書」六月号)で、書きはじめたのは「二〇一一年。四月半ば」と告げ、こう語る。「福島第一原発の事故があって、プラントが壊れてる映像をテレビで観たとき『あそこが東京なんだ』と思いました。あそこに廃墟の東京を幻視したと言いますか」。

 福島の原発事故を、電力の最大の受益者だった東京の問題としてとらえる見方はあったが、原発の瓦解を東京の廃墟としてひきうけようとする試みは、これまでなかった。しかも奥泉は空間的な重ね合せにとどまらず、その廃墟を歴史化する方向へとただちにつきすすむのだ。

 国際的な地震学者石橋克彦は、原発事故直後、昭和史をひもときアジア・太平洋戦争にいたり、今回と同じエリートたちの暴走による日本の敗北をたしかめた(「ルモンド」二〇一一年四月一五日)。ほぼ同じ時期に、地震学者と小説家がそれぞれの関心で「歴史」とむきあっていたことになる。石橋のいわば「日本自叙伝」は昭和以後だったが、奥泉の「東京自叙伝」は幕末以後、それも将門の時代まで見え隠れさせながら、近・現代の総体をとらえる。また、石橋は歴史の主役としてエリート層を冷静に分離、弾劾するのにたいし、奥泉が賑やかにえがきだすのは東京にかかわる全員。「東京の地霊」である語り手の「私」は、この地にわずかでも生きた全員を把捉するための格好の装置といってよい。

「私」はあるときは漱石家の猫、さまよう鼠。あるときは関東大震災に遭遇した軍人、戦後の暴力団。高度成長期からは「私」は無限に増殖、歌うジョン・レノンも死んだ三島由紀夫も踊るジュリアナ娘も「私」、秋葉原の通り魔も「私」で、そして原発労働者の「私」にいたる。

「『なるようにしかならぬ』とは我が金科玉条、東京と云う都市の根本原理であり、ひいては東京を首都と仰ぐ日本の主導的原理である。東京の地霊たる私はズットこれを信奉して生きてきた」。「私」がアイロニカルに告発する全員無責任=全員責任状態である。丸山眞男の「つぎつぎになりゆくいきおひ」説(「歴史意識の『古層』」)を彷彿させながら、そんな連続性もついに断たれる近未来の東京壊滅へとわたしたちをさしむける。

 途轍もなく重く大きな問いをもたらす円熟の怪作である。

「すばるから生まれた本」書評

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