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「DJTakaGenのカット&ループ」 高橋源一郎『銀河鉄道の彼方に』 陣野俊史

高橋源一郎『銀河鉄道の彼方に』

本体価 2,200円
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 高橋源一郎は読むこと自体を小説に仕立てる小説家である。小説を読まない小説家などいないし、その意味では読むことを小説にすることは珍しいことではない。だが、高橋の場合、他の小説家とはずいぶん違う。小説を長く引用し、自分の「読み」を示すような、評論の文章(『ニッポンの小説』など)もあり、学生たちとテキストを読み、学生が書いてきた文章を含めてテキストの「読み」を実践する文章(『13日間で「名文」を書けるようになる方法』など)もある。私はそれらすべて、高橋の小説だと思って読んでいる。つまり、高橋源一郎はDJである。すでに書かれ存在する素材を加工し、自分の作品として作ることができる(「リミックス」とか「トリビュート」とかいろんな言葉が使われてきたし、私の脳裡にも浮かんだが、すべていったん措く)。おそらく高橋にDJの意識が最も高かったのは、『日本文学盛衰史』ではないか。明治の文豪たちの作品の自由な解釈と作家本人たちの活躍は記憶に新しい。以下、DJTakaGenと呼ぼうと思ったが、あまり意味がないので自粛する……。

 DJ高橋にとって転換点は「3・11」である。あの日以後の高橋の動きを追っている者には周知の事実だが、『「悪」と戦う』(2010年)と『恋する原発』(2011年)の間には大きな疎隔がある。『非常時のことば』(2012年)や『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(2012年)には「3・11」以後にしか書けない文章が詰まっている。それについてはここでは触れない。別稿を用意する必要があるだろう。

 高橋にとって「3・11」がもたらした大きな変化は、小説を読むことの困難という形をとってあらわれた。読めない、以前みたいに読めない、と高橋は書いていた。ここからは推測になるが、それまで問題もなく読めていた小説の言葉がどこかよそよそしく、まるで霞の向こうにあるかのように思えたのではないか。

 高橋の新刊『銀河鉄道の彼方に』に「3・11」の強い刻印はない。そもそも本誌「すばる」への連載は2011年2月号で終了している(連載期間は2005年3月号から、六年に及ぶ)。つまり「3・11」直前に終わっているのだ。ただし、それから二年の間、高橋は連載原稿に手を入れ続けて、大幅な修整を加え、刊行の運びとなった(巻末にそう付言されている)。微妙な問題である。初出時の原稿と今回の単行本との間にある変化を、一字一句おろそかにせず追究しようかと思ったが、それは日本文学研究者に譲ろう。大切な作業だと考えるが、如何だろう?

 さて、本書の構成を。第1章「午後の授業、仮説、失踪」、第2章「手記、あまのがわのまっくろなあな」、第3章「真夜中の銀河鉄道」、終章「銀河鉄道の彼方に」。全体の半分以上、約300ページを占めるのは、第3章だ。この章は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が大きく書き換えられて導入されている。高橋はこの章をこう書き出す。「さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。/そのことに気づいた時、ジョバンニは、ああ、ぼくは、どうやってここにたどり着いたのだろうと考えました。/ものすごくたくさんのことがあったような気がしました。けれど、ジョバンニの頭の中には、雲のようなものがかかって、ぼんやりしていて、なに一つ、うまく思い出せそうもありませんでした」。

 宮沢賢治の原文はこうだ。「気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながらすわっていたのです。車室の中は、青い天鵞絨を張った腰掛けが、まるでがらあきで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした」(旺文社文庫版)。

 高橋は右の賢治の文章を響かせた表現を繰り返す。まるで繰り返すことで「鉄道」に乗っていることを確認するかのように、だ。

 物語と呼ぶべき大きな枠組はない。ただし、登場人物は少なくない。ジョバンニやカムパネルラ以外にも、高橋作品にお馴染みの子どもたち、「ランちゃん」や「キイちゃん」も出てくる。彼らのお父さんの作家も。実在の子どもたちに想を得た登場人物を書きつつある作家は、等身大の「高橋源一郎」に近いだろうが、もちろんフィクション。登場人物は列車の中で交流し、ジョバンニがランちゃんを抱きかかえていたり、「ハレルヤ」が繰り返されたり(「銀河鉄道の夜」にも当該箇所あり)する。魅力的な、長いコートを着た男も不思議なハンドパワーを持つ「サイモン」もいる。リリカルに小説は積み上げられる。高橋の小説の、特筆すべき特徴の一つ、リリシズムは今回も全開である。そして、銀河鉄道の列車は、様々な書物からの引用を可能にする箱なのである。

 なかでも、私がもっとも注目したのは、第3章の末尾の20ページほど。ここでは、右に挙げた文章「さっきから、ごとごとごとごと〜」以下が執拗に(!)反復されるが、その反復された文章がさらに削られ、ループして、二度も三度も小説に現れるのである。「『その通りだ』/わたしは、声のする方を向きました」。「『その通りだ』/ジョバンニは声のする方を向きました」。「その通りだ」という声だけが反復され、「ジョバンニ」と「わたし」の同一性が「あなた」と「わたし」に置き換えられ、同一性は揺らぐ。DJとしての高橋源一郎のスキルの光る箇所だ。

 他者の小説の言葉を加工し、自分の小説の中に生き返らせた文章を、まさしくその小説の中でカットし、ループさせること。高橋源一郎は、新しい段階に入ったというべきだろう。自分の小説の言葉をループさせることで、高橋の銀河鉄道は「彼方」に到着する。そこからの再出発は、「3・11」以後の高橋の小説に、はっきりと刻印されている。

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