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「無為徒食の聖性」 田中慎弥『共喰い』今福龍太

田中慎弥著『共喰い』

本体価 1,000円
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 彼は、笑うためにやってきたのでも泣くためにやってきたのでもない。海辺からやってきたのか山からやってきたのかもわからない。人から言われた通りにではなく、後ろ盾なしに、無反省に、悲しみもなしにやってきた。哀願することも命令することもなく、許しを請うこともなくやってきた。このときまで、彼はまだ働いたことがなかった……。

 本書を読みおえたとき、こんなアンリ・ミショーのものらしき詩句の断片が、自在に姿を変え、私の前に揺らぎながら現れた。詩句はまもなく「無為徒食の聖性」、そんなことばに私のなかで変容し、脳裏に鋭い刻印を残していった。作家にたいして無為徒食はあてはまるまい。だが彼らが文字を生産して生計を得ているという単なる理屈を突き破ったところで、生のすべてを「ない」という否定辞によって定義するほかない無為徒食の存在が作品の背後からせり出してくる。魚屋で魚をさばく義手の実母。やくざな商売を転がす暴力的な父。その情婦で飲み屋勤めの同居女。川べりのアパートの角で客を待つ白化粧の女。都市的な現実を支配する職業意識と合目的的な生活という抑圧に背を向けた者たちの、意味を欠いた圧倒的な無為を、民の掟のように受け継ごうとする青年のミニマルな性の革命。

 文学は「徒食者」であることの聖性において存在せしめられる。その聖性のなかにこそまた民の平和もある。放っておいてもらうこと、自分たちの生活を公共の価値というもっともらしい暴力から解放すること。これを民衆の魂と身体の自立にむけた最後の拠点とするならば、民の平和はすでに完膚無きまでに粉砕されている。この川辺の村ですら。

 おのれのヰタ・セクスアリスの露出を忌避し、自己の遺伝子的再生産を畏れて脱生殖化してしまった社会に対し、作家は無為徒食の聖性の側に立って叛乱する。エロス(性)の希薄化とともにタナトス(死)との日常的連続性の感覚も衰退しかけている社会に向けて、暴力が民の平和として息づく最後の可能性を突きつける。汚物の停滞と海水の浸食に任せながら漂う川辺の村の時間。その川の汚水が育てた大鰻は充血していきり立つ男根のように、のたうちながら幻影の女体のなかに潜り込む。暴力と殺意を介して民の平和を守ろうとするかのように。

 あざとい予定調和に自閉する学校やテレビや流行小説からとっとと離れ、この粘着力ある豪放な色相に満ち満ちた聖なる無為徒食の怪物と対決するがよい。

「すばるから生まれた本」書評

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