人によっては小説を読むとき、それを映像化して読んでいるらしい。ページをめくるごとに、まるで映画を猛烈な早回しにして観ているように、心の中で場面が展開し、せりふが語られるのだろうか。言葉というか字面にとらわれるぼくには、なかなかそれができない。むしろ、つぶやきが聞こえる。ぼそぼそと語る声を想像することが多い。その声は誰でもない男や女の声となり、どこのものともつかないアクセントで、現実の声と無音の中間地帯で緩急自在な速度をもち、物語を進めてくれる。
『海猫ツリーハウス』は、楽しい読書だった。いま述べた二つの読み方を、統合してくれた気がする。まずそれはきわめて映画的に書かれていて、このままそっくり忠実に映画化すれば確実に青春映画の佳作となるだろう。心の中でのイメージ作りを助けてくれる材料が十分かつ丁寧に与えられているため、おもしろい映像が即座にむすばれ、またほどかれてゆく。そしてその一方で、そこに響く一人称の語りの声が、会話の全体にわたる青森県の一地域の方言によって、曲げられ、独特な風味を与えられる。
音を知らないので、その訛りを再現することはできない。だがそこに、どこか心が浮きたつような魅力を感じる。音声が初めて文字になるとき、それを文字として記録する者の、精神の緊張と勇気を感じるからか。本当には声として体験することができないこの文字の声によって、舞台として選ばれた土地の風と光を感得することができるからだろうか。
選ばれた場所は、「上を奥入瀬川、下を五戸川、そして右手を太平洋に囲まれた小さな町」。地図で確認するなら、現実の八戸市の北端だ。南東に十キロも走れば、八戸港を経て蕪島のウミネコ繁殖地があり、種差海岸がある。すばらしい土地だ。だがそんな光の土地も、地元の当事者にとってはどう見えることだろう。いわば「次男小説」とでも呼べるこの作品では、じいちゃんの農業と「親方」のツリーハウス作りを手伝いつつ、自分勝手な兄と対立し脱出の夢を抱えて悶々としている、二十五歳の亮介の苦境がユーモアをもって語られる。
その粗筋は、書かない。だが小説を好感度で語っていいなら、これは大変に好感の持てる作品だった。「動かないように見えて木は常に動いている。そのゆれの中におれたちもいて木と一緒にゆれている」。物語のまんなかあたりでさりげなく出てくるそんな言葉に、このみずみずしい小説の鍵があるのかと思った。